topimage

2017-06

スポンサーサイト - --.--.-- --

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

喧嘩辰vs田辺のつるvsできんボーイ - 2014.09.23 Tue

怖いゾ、amazon!
毎週メールで送られてくるおすすめ商品。半年くらい前だったか、おすすめの中に加藤泰の「車夫遊侠伝 喧嘩辰」が入っていて驚く。これはずっと前から見たいと思っていた映画で、なぜそれをピンポイントでついてきたのか、なぜそんなことが分かったのか。しばし考え、多分以前に同じ加藤作品の「緋牡丹博徒 花札勝負」をamazonで注文したことを思い出し、アレか? とは思ったものの、DVD化されている加藤作品は他にも多々あり、なぜ「喧嘩辰」を? 
わたしの心の中を覗かれたようでヒジョーに怖かった。

それより更に怖いおすすめが今週あった。高野文子の近刊「ドミトリーともきんす」はどうだっ、ときたのだ。
なぜわたしが高野文子ファンだと分かった?!
もちろん、これまで彼女の作品を注文したことはなく、そもそもamazonでマンガ本を注文したこともないのだ。
それがなぜ? これまでわたしが注文したDVD・書籍の傾向と年齢を重ね合わせると、こいつは高野文子ファンだと割り出せるのだろうか?
怖い、怖すぎる。

70年代の後半くらいからだろうか、この国でにわかに「少女マンガブーム」が巻き起こり、いろんな雑誌で少女マンガの面白さが論じられたが、わたしは、そこまで手がまわらんわいとずっと素通りしていた。
いったいどういうキッカケがあったのか、遠い昔のことなのでもう忘れてしまったが、とにかく「絶対安全剃刀」という、短編をいくつか収めた彼女の単行本を読んで衝撃を受けた。中でも、これは多くのひとが論じている作品だが、「田辺のつる」。とてつもなくわがままな幼児に手を焼く家族が描かれているのだが、その小さな女の子が実は認知症の老女だと明らかにされた時の驚きたるや! 
このマンガにインスパイアされて書いた戯曲が、認知症の母と、彼女の世話に困り果て一緒に死のうとする息子とのふたり芝居「あたま山心中」と、高校時代のひと夏の思い出を、年老いたいまでも、その時に着ていた服を着て繰り返し回想する老女を主人公にした「みず色の空、そら色の水」だ。「竹内版 女の一生」とも言える「伝染」もそう。
それまで汗臭い男たちを中心に書いていたのが、80年代の終わり頃から、女性を中心にしたフェミニンな作品(?)の方にわたしが傾斜したのは、周りに若い女優さんが増えたこともあるのだが、これは明らかに高野文子の影響だった。

しかし。こんなことamazonさんが知るはずもなく。

そうだ、「舞妓はレディ」もどこか高野作品に似ているな。上白石萌音さん主役で、「おともだち」の中に入ってる傑作「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」を映画化すればいいのに。

先の「ドミトリーともきんす」と一緒に、田村信の「できんボーイ」を注文しようと思ったら、これがベラボーな高値になっていて。根強いファンがいるのだなあ。

他人事とは思えない - 2014.09.18 Thu

今日は朝から燃えてしまった。ノルウェー産の映画「ヘッドハンター」に火を点けられてしまったのだ。とんでもなく面白い。
で、矢も盾も堪らず(?)、気になっていた「舞妓はレディ」を見に行く。
監督の周防さんの映画は、程度の差はあれど、みんな面白い。おまけに、今度はミュージカル、ならば見逃すわけにはいかない、というわけで。

さっき家に帰って来たのだが、いまだに興奮が納まらない。この映画の製作にわたしはなんにも関係ないのに(言うまでもない!)、映画がはじまってすぐ、これは他人事ではないゾと思い、通常ありえないようなドキドキ感が押し寄せてきて、それがいまだに。

ひとつには、わたしの芝居に何度か出てもらった小日向さんや中村久美さんと、スクリーンを通してだが、久しぶりにご対面出来て、懐かしい! という思いが募ったこと、さらには、あの純子さまも出演されているからだが、そう、純子さまの「緋牡丹博徒」のテーマ曲が映画ののっけから流れたのだ!
しかし、それよりなにより、田舎(鹿児島)から出てきて舞妓になるための修業に励む主役を演じた上白石萌音さんが、もう、なんと言ったらいいのか、文句なしに可愛い! ドキドキはここからやって来たのだ。

顔立ちがどうこうではなく、いやもちろん顔立ちも可愛いのだが、花街特有の礼儀作法、京都弁、踊り、鼓、三味線等々を教え込まれる際に、相手の台詞を聞いている彼女の真っ直ぐな眼差し、稽古に励むひたむきな姿勢が彼女自身と重なって、これはもちろん監督の狙いなのだろうが、特殊な世界を描いた色濃いファンタジーであるはずなのに(だってミュージカルだもの)、彼女の俳優としての成長の過程を描いたドキュメントとしか思えず、だからというのも妙な話だが、彼女がまるでわが子わが孫のように思えて、「春子(役名)がんばれがんばれ」と声援を送っているわたしがいたのだ。

本編の前に、これから公開される何本かの映画の予告編が流れ、そのどれもが判で押したように、「感動!」だの「優しさに包まれて」だの「幸福になれる」だのを連発し、いい加減うんざりしていたのだが、皮肉なことに(?)、出演者全員が仮装して上白石さん歌うテーマ曲に合わせて踊る、実に楽しい、楽しすぎるこの映画のラストシーンを見終わったときには、わたしは「優しさにつつまれ、感動し、幸せな気分に」ひたっていたのだった。
監督は、この映画の主役をきめるオーディションの際、彼女の歌声を聞いて、この子を使ってすぐにも撮影に入りたいと思ったらしいが、分かる、ほんとに素晴らしい歌声。陳腐を承知で書いてしまうが、ほんと、心が洗われるような天使の歌声なのだ。

凄いな、周防さんは。舞台となっている花街自体が、わたしたちの見慣れた風景とはかけ離れた世界だが、さらに、それを究極のフィクションともいうべきミュージカルで描くというのだから、当然、この映画にはいわゆる<アクチュアリティ>の欠片さえないはずだが、にもかかわらず。二重の過剰なフィクションのフレームが逆にそのフレームの存在を無化させ、上白石萌音という極上のヒロインを得たことで、映画的リアルを提示している。

しかし。まったく大きなお世話だが、彼女はこれからどうなるのだろう? これから以後、こんなに幸せな映画、こんな適役に出会えることがあるとは、思えないのだが ……。でも、純子さまの思えば …

置き屋の女将役を演じる純子さま。歳相応の顔のお皺がとてもいい。予告編で見たピカピカの顔で相変わらずの芝居をしている吉永小百合と大違い。上白石に自分の若い頃は …‥と思い出を語る長い台詞にものすごく説得力があり、そして、そのもの言いに、「緋牡丹博徒 花札勝負」の冒頭で彼女が仁義を切っていたあのもの言いとが重なって、ある種の感慨を覚えた。このひと、初々しさを残したまま腕をあげてる、えらいなあ、と。






仕事がねえのは切ないもんだな - 2014.09.17 Wed

京都の住まいのオーナーが代わり、それにともなって家賃の振込先も変わったので、新しく口座を作るために金融機関に行く。当然、書類になんだかだ書かなきゃならないわけだが。仕事・勤め先を書く欄があって、一瞬戸惑い、そして、「執筆業」と書き入れたら、なにを書いてるのかと聞かれ、「頼まれればなんでも書きますけど」なんて答える。昔は「自由業」なんて書いてたが、この歳になって自由を生業にしてるなんて書けないし。
以前は、運転免許証を持っていないわたしは、わたしがわたしであることを証明できず、大変な苦労と屈辱を味あう羽目になったが、いまはもう住基カードがあるから大丈夫、と思いきや。窓口のお姉ちゃんに「執筆業って出版とは違うんですよね」と言われる。職種がコード化してあって、そのコード番号を書き入れる欄があるらしいのだが、「執筆業」はないんですけど、と言われる。わたしもそれを見せて貰ったのだが確かに表にないのだ。「研究」なんていうのがあったので、じゃ、一応研究もしてるのでこれでと言ってみたのだが、クスッと笑われる。

言いたかないけど、こう見えてもわたし、国から勲章もらってる男だぜ。きみだって職業に貴賎はないって言葉を知ってるだろ。表になくても一応仕事もマジメにしてるし、税金だって多分きみより払ってるそれなりの「市民」だぜ。
なんてことは思っただけで言わなかったけれど。

それにしても。
公的機関でなにかを取得しようとすると、まるで犯罪者の取調べみたいなことを強いられるようになったのはいつからだろう? もちろん、不正をやらかす人間がいるから厳密な身分証明を要求するのだろうし、ひとは誰も潜在的犯罪者といえなくはないから、その視点から見ればしょうがないと思わざるをえないのかもしれないが。しかし。100人にひとりいるかいないかの犯罪者による被害を防ぐために、残りの99人まで犯罪者扱いするのは正当なことだろうか?

テレビが加速度的に詰まらなくなっている。ずいぶん前からドラマはまったく見なくなっているが、ヴァレイティも詰まらなくなった。「さんまのからくりテレビ」の最終回で、過去の面白場面を見て、その感を深めた。やっぱり面白かったのだ、昔は。その面白さの大半を担っていたのが、いわゆる素人だ。素人といっても、世間常識や「良き市民」の枠からはみ出した、酔っ払いや老人や子供たち。替え歌名人たちが一同に揃っての大合唱、司会の安住も号泣してたが、わたしもついつい泣いてしまった。それが。
いつからかこの名物コーナーも歌手・タレントが出場するようになってしまって …

こういうちょっと危ない素人が画面から消えるようになってから、この番組の楽しさ・活力はすっかりなくなってしまった。
同じさんまの「明石屋電視台」も同様。クイズに出場する素人とさんまのやりとり、そして、さんま・村上ショージ・間寛平のトリオの頓珍漢な掛け合いが楽しかったのに、内容がマイナーチェンジされて、ゲストのタレントへの質問コーナーが主となり、それにともなってショージ・寛平の出番も減って、素人も客席に追いやられてしまった。
この貧しく寂し過ぎる現状は、多くのタレントを抱える大手事務所からの圧力の結果ではないかと勘ぐりたくたくなるが。
多分、面白い素人を探しだすのがメンドーになったのだろう。その面倒を引き受けるエネルギーが番組の活力になっていたのに、自分で自分の首を絞めてしまった。

今週のNHKの「プロフェッショナル」。新潟で磨き屋の会社を経営していて、業界ではそのひとありと知られた小林さんというひとにスポットが当てられていた。番組の構成がいつも似通っているという退屈さはあるのだが、取りあげられるひとのひととしての魅力がそれを補っている。
磨き屋とは、金属をツルツルピカピカに磨き上げる仕事で、小林さんは、アイフォンだかアイパッドだかのボディを鏡みたいに仕上げたということで、自分の名だけでなく、この仕事自体を広く世に知らしめたひとらしい。
小林さん(の会社)は、大きな仕事は引き受けない。理由はふたつ。
大きな仕事とは、同じ仕事を大量にこなすということで、そういうことを続けていると、職人の腕が上がらない。だから、儲けは少ないが、小さな仕事を1コ2コの注文でも、いろいろやるのだ、と。
もうひとつは、20年ほど前と言っていたか、それまで大手の会社の下請けをやっていて、それだけでやっていたのが、その会社が、工賃が安いからと韓国の会社に乗り換え、それで仕事が一気になくなってしまった。その轍を二度と踏むまいと思っているから。
因みに、今回のタイトルは、その頃の小林さんが奥さんにポツリと吐いたことばである。
会社には、小林さんも含めて6人の職人がいるのだが、その仕事ぶりが素晴らしい。彼等の真剣な眼差しは、ドラマやひな壇に並んでへらへら笑っているタレントたちには、当然のことながら見られないもので、体全体で微妙なリズムを刻んでいて、それが心地いい。

あまりに素朴な表現で少々気恥ずかしいが、こういうひとたちに接すると、ああ、世の中には立派なひとがいるんだなあと思い、そして、こういうひとに対してだけでなく、人間という動物すべてに敬意を表したくなるのだ。

小林さんは自分の目先の儲けよりも、若い職人たちの育成に力を注ぎたい、と語っていた。
昨日やっと読了した、河野哲也の「善悪は実在するか」によれば、動物実験の結果から、利己的であるよりも、利他的である方が、生きていくうえでは最終的に有利になることが明らかになっているらしい。
という話は、長くなったのでまたの機会に。





フレームという安全装置 - 2014.09.14 Sun

「トト・ザ・ヒーロー」と「ウェディング・バンケット」を見る。ともに初見。ともに90年代初めに公開。ともに、「映画通100人が選んだ”発掘良品”」という触れ込み。
以前にも書いたが。なにかを選んだり決定したりする際、それにかかわる人間の数が多ければ多いほど、その決定はより正しいものに近づく、公正性が保障される、という考えは間違っている。平均・フツーに近づくだけだ。
映画通の100人の顔ぶれがどんなものか、どういう過程を経て<良品>が選ばれたのか。その肝心要が分からない。
当然のことながら好きな映画の趣味・嗜好は100人100様だから話し合いなどでは決まるはずもなく、投票かなにかで決めたのだろうか。選ばれた作品は結局、よく出来ているけれど無難な、というようなもので、多分誰もが、投票の結果に満足していないと思われる。万人向け(=平均・フツー)というのは、要するに主体の放棄で(=選んだひとの顔がない)、だから、誰もそこそこにしか満足しないし、させられないのだ。

「トト・ザ・ヒーロー」
主人公は老人。彼は長らく殺意を抱えていて、その対象は隣に住んでいた自分と同じ生年月日の男。
主人公のトトは、生まれて間もない頃、産院が火事になり、その騒ぎの中で、自分と隣の男はすり替えられたと思っている。つまり、自分は本当は隣の家の子供だと思っているのだ。本来は自分のものであるはずのものが、隣の男にみんなもっていかれてしまって、大好きな姉さえも隣の男に靡いてしまった …‥。成功と幸福に包まれた彼の人生。それに引き換え自分は、ああ、なんという失敗と不幸の人生!
トトが殺人を実行しようとしている、殺人に近づいていく現実の時間と、これまで隣の男のために味あわされた数多の辛酸=過去とを往ったり来たりさせながら、物語は綴られる。
その語り口は巧妙だ。とりわけ、物語の軸になっている姉との近親相姦めいた関係の描き方は精緻でハラハラさせられ、障害をもって生まれた弟との交流に見せるトトの優しさにも心打たれる。そして最後に用意されたどんでん返し。

確かに、さあ、次はどうなる? という、物語を追いかける楽しさは、映画を見る悦びのひとつだが、それは数多ある悦びのひとつでしかない。この映画は、残念ながら(?)、結末まで見てそのストーリーを知ってしまうと、それで終わってしまう。だから、わざわざ見なくても、ストーリーを教えてもらえばもうそれで十分だと思ってしまう。

「ウェディング・バンケット」も同様な感想をもった。
舞台はニューヨーク。中国人のゲイのサラリーマンが主人公。彼は恋人(もちろん男性)と同棲している。
主人公の実家は裕福で、彼は父が出資した家作を所有していて、そこには芸術家の卵の中国人女性が住んでいる。
ある日、田舎の父が重病であること、そして父の夢が、生きている間に孫の顔を見たいというものであることを知る。
孫はともかく、せめて父が生きている間に結婚をして安心させてやりたいと彼は思い、同棲している男のアイデアで、先の芸術家の卵と偽装結婚をし、両親をニューヨークへ呼ぶことにする。卵の女性も、就業ビザが間もなく切れて、このままではニューヨークにはいられない、結婚すればその難局を乗り切れる、というわけで、その提案に乗る。
両親がやって来る。盛大な、盛大すぎる結婚式。女性の妊娠。ゲイであることが両親にバレてしまう、等々あって …‥

これらのエピソードが手際よくまとめられている。女性の妊娠を知った主人公は、はたしていかなる選択をするのかと、これまた、さあ、どうする? と物語の先行きに好奇心をもたざるをえないような作りになってはいるのだが …

映画を見る悦びは、映画でしか味わえない悦びであるはずだ。それは多分、先にも記したように、ストーリーがもたらす悦びではなく、ストーリーという<フレーム>からはみ出したものであるはずだ。

どんなに素直なひとでも、スクリーンの向こうで起きている事柄はすべて嘘っぱちであることを知っている。例えワニが大口を開けて迫ってきても、驚きはするけれど、自分の身が危険にさらされているとは思わない。
でも時に、スクリーンというフレームからはみ出して、<リアル>と感じさせられることが起こる。
一般に、フツーを感じさせるもの、嘘を感じさせないものが<リアル>だと思われているが、それは逆で、ひとは、フツーじゃないことに接したときに、つまり、常識と言うフレームが取っ払われてしまった時に、<リアル>を感じるのだ。

傑作という噂だけを知っていた「股旅 三人やくざ」を見る。
家・家族・生まれ故郷を捨てた三人の旅人を主人公にしたオムニバス。それぞれ独立した3話が綴られる。
第一話の季節は秋。兇状持ちの旅人があるヤクザ一家にワラジを脱ぐ。その一家の子分は、彼に敷居をまたがせるとお上からお咎めが …、と心配するが、親分は、ヤツは他の一家にもワラジを脱いでここまで来たのだ、なのに、おれのところで厄介払いしたとみんなに知れたら、器量のないヤツとバカにされると考え、彼をむかい入れる。
この一家が経営している女郎屋に、メンドーな女がひとりいる。時々、川向こう(?)から彼女を引き抜こうとする男たちがいて、彼女もそれに応えて、包丁を振り回して逃げようとするのだ。
主人公は彼女の監視役を仰せつかる。初めのうちは男に背を向けていた女だったが、ふたりきりの時間を過ごすうち、少しづつ心を開くようになる。主人公の「そんなにその男が恋しいのか」という問いに、女は意外な返答をする。
自分は、その男の顔も体もなにも覚えていない。だって、一度来ただけの客だもの。でも、そんな一度しか会っていない男が、自分みたいな女のことを好きだと言ってる、だから、それに応えたいのだ、と。
その男が女の生きる希望なのだと知って、主人公は動揺する。彼はとうの昔にそんな<生きる希望>など捨ててしまっているからだ。
主人公は、川向こうへその男に会いに行く。しかし、彼はいない。女を奪いにやって来ている男は彼の弟で、当人は女の身請けに必要なお金を稼ぐために、首に賞金がかかってる兇状持ちを殺すために旅に出てる、と聞かされる。
うーん。話がうまく出来てる。映画の冒頭、暗闇の中でしつこく自分をつけ狙ってる男を、主人公はばっさり斬り捨てているのだ。そして、その男の懐から転がり出た女物の櫛を、なんとなく気になって、彼は持っている、と。そして …

この哀しすぎる女郎を演じる桜町弘子が素晴らしい。それこそ、物語のフレームからはみだして、彼女の抱えてきたと思われるこれまでの人生の労苦が、見るものにじかに迫ってくるような。
対照的に、主人公を演じる仲代達也、ニヒルな男という<キャラ>のフレームの中に収まったまま、微動だにしない。
春をバックにした3話で、ヘナチョコヤクザを軽妙に演じる中村錦之助がこの役を演じていたら、と思わずにいられない。

「役」とは演じるための衣装(=フレーム)に過ぎない。そのかりそめの衣装を脱いで自らの裸=生き方を見せる。これが俳優のなすべきことだ。
うん? 少し表現が大仰に過ぎたか。言葉を変えよう。
100人のヤクザがいるとして。彼等はきっとどこか似通ったところがあり、それを典型と呼び、やくざらしさとはそういうものだろう。しかし、100人のヤクザには100通りの顔があるはずだ。典型=フレームからはみ出し、100の顔からひとつを選びとること。そのことを可能にするためには、演じる役との限りない対話が必要だ。役に聞く、聞く耳をもつこと。俳優がなすべきこととは、役が語る言葉への返答を(自らの歴史が刻まれた)身体で明らかにすることだ。

桜町弘子というひとがいったいなにを考え、どういう人生を歩んできたのか。その実際を知るはずもないが、しかし、この映画の彼女にそういうあるべき俳優の真摯さを感じ、仲代氏にはそれが感じられない。そういうことだ。

監督は沢島忠。桜町の素晴らしさもまた、沢島・桜町の間に交わされた濃密な対話の産物であろう。
断るまでもなく、濃密な対話とは、言葉の量の問題ではない。なにも語らずともそれは成立する。
共感の有無。それが問題なのだ。












欲しがる○○は貰いが少ない - 2014.09.08 Mon

いつまで続くデング熱騒動。高熱が出るだけで死ぬわけじゃないんでしょ。除虫薬を散布するだけでいいんじゃないの? 別にフェンスなんかしなくったって。なんかほしいというのなら、立て札でいいでしょ、「蚊に注意!」みたいな。あとは自己責任でいいでしょ。なんかねえ。やってる感をアッピールしたい行政と、テレビ映りのいい絵がほしい局側の意向が合致しての、ほとんどこれはヤラセの一種ではないのじゃないか、と。

テニスの錦織が全米オープンの決勝進出ということで、ここでも大騒ぎ。<事件>がほしいマスコミの煽りに、テニスなんかなんの興味もなさげな人々が乗っかってる図、あまりみっともいいものじゃない。
それはともかく。昨日のスポーツNで錦織くん、テニスはメンタルスポーツでといい、自分の心の支えになってる詩があると語る。まさか、アレじゃないだろうなと他人事ながらその先を危惧していたら、やっぱりアレで。
彼が好きな詩(人)は、かの相田みつを先生(のお言葉)だった。アチャー。
あのね、きみは世界を代表するプレイヤーを目指しているわけでしょ。そしたらさ、もう少し自分の発言を考えた方がいいと思うんだよね。というか、もう少し知性・教養を深めないとバカにされるよ、世界の人々に。まあ、子供の頃からテニステニスで明け暮れてたから、本なんか手にする時間もなかったんだろうと思うけど。
だからって、相田みつをはないよなあ。彼のまわりにフツーの教養を持ってるひと、誰かいないの?

録画しておいた「ある海辺の詩人 -小さなヴェニスでー」を見る。2011年劇場公開。

中国女性のヒロイン。故郷は福建省だと言っているから、イタリアへは不法入国なのだろうか。中国から来る際に借りた渡航費を(蛇頭に?)返すために、そして国に残してきた8歳の息子をこちらに呼び寄せるための費用を稼ぐために、不当ともいえそうな労働を強いられている。最初はローマの縫製工場で働いていたのだが、その働きぶりを認められ(?)、小さなヴェニスと呼ばれているらしいナントカって港町へ移動させられ、その町のカフェで働くことになる。かなり大きな店を、彼女はひとりで切り盛りすることになる。最初は客の言葉がわからず苦労をするが、たちまち言葉を覚え、店に来る男たちとも親しくなる。その中のひとり、仲間たちから「詩人」と呼ばれる老漁師と親しくなって …‥

海と大雨のために冠水した町並み。上映時間90数分のうち、70分ほどの画面に水が溢れている。ネットで調べたら監督はドキュメンタリーを撮っていたひとらしい。さもありなん。海とそして潟の様々に変わる表情が見事に捉えられている。
ヒロイン役のひと。イタリア在住の素人かとおもいきや、これまたネットで確認したら、チャオ・タオという中国を代表する、ワールドワイドな女優さんのひとりだ、とあり。うーん。だって、ほんとにそこらへんの30代半ばのフツーの中国人の、幸薄い下層の庶民にしか見えないのだもの。自らの遅れ=無知・不明に恥じ入る。

<事件>などなにも起こらない。最後に思わぬ喜びが用意され、そして哀しい事実も明らかにされるのだが、それはとても慎ましやかに伝えられ …‥。にもかかわらず、終始、このままで終わろうはずがない、なにか起こるゾと、通俗的な卑しい期待感を観客に保ち続けさせる。つまり、登場人物たちのなにげない会話や振る舞い、そして先にも記した海・水の表情等に快い緊張感があり、全編サスペンスフルなのだ。

物語は、過去・現在・未来と流れる時間とともに成立するのだが、この映画の登場人物たちは自らの過去をほとんど語らない。ヒロインはなぜイタリアに来たのか、彼女の(いるはずの)夫のことも、彼女の生い立ちもほとんど語られない。
親しくなった老漁師も、30数年前にユーゴスラヴィアからこの町に来たこと、そして、少し離れた町に住んでいる息子が一緒に暮らそうと言って来るがそれを拒否していることくらいしか明らかにされない。そう、彼の仲間のひとりに「弁護士」と呼ばれている老人がいるのだが、なぜ彼がそう呼ばれているのか、それも分からない。
誰もが<いま>を生きている。考えていることもせいぜいが明日のメシはどうするかくらい。

なんという潔さ! 
お涙頂戴の物語の大半は、不幸な過去(を明らかにすること)によってもたらされるが、この映画では過去が語られないので、哀しみも透き通っている。

古代中国の詩人、屈原の詩のいくつかが彼女によって披露される。老漁師は彼女に自作の詩を贈る。
「遠くのものが出会う」とは、詩人・西脇順三郎のシュルレアリズムの定義だが、これは、中国を離れた詩人とユーゴを捨てた詩人との、奇跡の出会いと淡い恋を水で(水に?)描いたお話なのだ。




NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

公式ホームページ

お客さま

プロフィール

初代管理人

Author:初代管理人
写真は竹内銃一郎
(ウィキペディアの解説ページ)

mixiコミュニティ

カテゴリ

竹内銃一郎のドラボノ介 無頼控 (255)
公演情報 (9)
稽古場日記 (591)

最新記事

最新トラックバック

月別アーカイブ

最新コメント

検索フォーム

リンク

このブログをリンクに追加する

QRコード

QRコード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。