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暗いからといって深いわけではない - 2014.09.03 Wed

久しぶりにえも言われぬ快感を味わう。脳天に穴が開いて、そこから体内に淀んでいた苛立ちやら不安やら不満やらナンヤカヤすべてが、スコーンと抜けていったような解放感!

先週の土日。わたしらのPOGにおける今年のわたしのドラ1、アヴニールマルシェが新潟三歳ステークスに出走するというので新潟競馬場へ出かけ、そのマイ・アヴが出遅れもなんのその、最後の直線、最後方から大外を回って先行する全馬を一気に追い抜いて行ったのだ。
マイ・アヴと見ていたわたしとの距離は多分20メートルほどはあったはずだが、まるでわたしの鼻先を掠めていったかのようで。その瞬間に脳天が開き、全身鳥肌、思わず「ウォーー!」と叫んでしまった。
実際はハナ差の2着だったのだが、そんなことはどうでもよろしい。凄いものを見せてもらったのだからそれで十分二十分。

二日経過してもそんな興奮冷めやらぬ中でどんな映画を見たって、退屈さを感じるのはいわば当たり前なのだが。
録画してあった「夏の終り」を見る。
瀬戸内晴美の原作は昔読んでいる。30年ほど前、「恋愛日記」とタイトルだけは決めたものの、さて中身をどうするかと考えあぐね、参考にと読んだ幾つかの恋愛小説の中のひとつだった。

主人公は女性染色家で、彼女は妻子ある年上の小説家と不倫関係にあるのだが、小説家の妻はふたりの関係を認めているということになっていて、週の半分ほどは彼女の家で過ごしている。彼女は彼と結婚したいのだが、男は明快な返答をよこさず。それも手伝って、かって田舎で恋愛関係にあった男と再び付き合うようになる。彼女はその男のために、夫と別れ子供も捨てている。ヒロインの設定を小説家から染色家に変えた以外は、すべて瀬戸内の実体験であるらしい。
それでまあ、男と女の三角関係だか四角関係だかのぐちゃぐちゃが描かれる、と。

例の如く、小説の中身はすっかり忘れていたが、わたしが戯曲で使った小説の台詞がこの映画でも使われていて、さすがにそれは覚えていた。小説家の男が、ふたつの家を行ったり来たりしているという設定も、わたしの戯曲と同じだが、これはこの小説からいただいたのではなく、トリュフォーの「突然炎のごとく」と「恋のレッスン」を重ね合わせた結果だ。因みに、前者はひとりの女とふたりの男(友人)の話で、後者はひとりの男が姉妹の間で揺れ動き、結果ふたりに振られる、というお話。それはともかく。

この映画、とにかく画面が暗い。確かに、設定されている(と思われる)1950年代の室内は、いまとは違ってずいぶん暗かったのだろうが、それにしても。特に前半の大半は室内シーンで、明るいはずの日中の屋外シーンがほとんどなく、雨が降っていたり、夕方だったり。だから暗い画面は単なるリアリズムではなく意識的に選ばれたものだろう。それはあるいは、緑あざやかな、彼女の田舎の田園風景との対比を意識したのかもしれぬが、だとしたらなお、わたしにはその発想自体があまりに<文学的>であるように思われる。

画面が暗いと感じてしまうのは、単に明度の問題ではなく、登場人物たちの意志・行動に明快さが欠けるからだろう。もちろんそれは、彼・彼女が優柔不断だというのではなく、監督の彼等を見詰める視線に明晰さが欠けているのだ。
稽古場で昔、俳優達によくこんなことを言った。「暗い」と「深い」を取り違えるな。どんなに深い湖だって、透明度が高ければ底まで見えるはずだ、「濁り」で誤魔化すな、と。

久しぶりに大和屋さんの映画論集『悪魔に委ねよ』を手にする。
収められた文章に付されたタイトルがかっこいい。
「ストトントンとやってくる」「マリちゃんと拳銃」「腰高の仁義について」「麿赤児 劇はそれ瞬息」「大深刻は大軽薄に裏づけよ」「母の総入れ歯」「燃えないテレビ」「映画は恐怖に根ざしている」等々。
以下は、1990年に書かれた『雪の中の真紅 鈴木清順「東京流れ者」』の一部。

「東京流れ者」を二十四年ぶりに見ることが出来た。あたらしいと思った。表現がちっとも古びていない。
渡哲也の若々しさ、みずみずしさ、明るさ、格好のよさが、印象深かった。渡哲也という俳優について、この後の方向を見てみると、彼は次第に男の憂愁の気配をおびてゆくことになるのだが、この時の彼は、ひたすら明るいのだ。
「流れるよ」
と云い、もう一度、
「流れる」
とくり返す、不死鳥の哲の、明るい投げやりなあの云い方に、僕は感心した。殺し屋の追っ手を逃れて、流れ流れてゆく若きアウトローを、渡哲也はじつにさわやかに、軽々と演じているのだ。青春ーーそうだろうか? 未だ海のものとも、山のものとも知れぬデヴュー俳優が、熱演も思い入れもせず、そう云いきる時のすがすがしさは、やはりたまらない。
(中略)
(友人のシナリオライター田中陽造とこの映画の何もなさに驚き)
何もないーーということは、お客にサービスするような、俗っぽいルーティンがない、ということである。ストイックで、厳しすぎるのではないかと、僕等は心配したのだ。
何しろ、色彩は極限に迄抑制されている。白一色の世界に、ポツンと真紅の郵便受け。シネスコワイドの画面に縦位置で、走る男、追う男が、奇妙にもつれ合って近づいてくる。それが、望遠レンズのせいだろう、もどかしい程に、こっちに到着しない。
(中略)
リアリズムなら、もっと飾りたてるだろう。しかし、(美術家の)木村威夫と鈴木清順はそうはしなかった。あらゆるデザインが簡潔をめざし、象徴をめざしていた。空無の中に、くっきりと、人物が立っていた。
(後略)

要するに、「夏の終わり」はわたしの好きなこういう映画とは対極にあり、だから退屈だと言いたいわけですが。
ただ、例外なのは、ヒロインを演じた満島ひかり。細身ながらその立ち姿はくっきりとしていて美しく、また、対象を見るときの眼差しに、わたしたちに直接訴えかけてくるような厳しさと哀しさがあり、ああ、このひとは映画女優だと思ったのだった。



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