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ふたりの命はひとつだろ - 2014.05.27 Tue

『深沢七郎外伝 淋しいって痛快なんだ』(新海均 著)読了。

ずいぶん昔に読んだ、嵐山光三郎の深沢をモデルにした小説『桃仙人』で、わたしの深沢像が出来上がっていて、それは、煮ても焼いても食えない偏屈きわまりないひとというものだが、ここで描かれる深沢は、度がきつくて匂いも鼻につくクセの強い酒を清涼飲料水で割ったような印象。
多分この違いは、嵐山とこの本の著者の深沢との距離のとり方、つきあいの濃さの違いからくるものだろう。
それと人柄の違いか。きっとこの著者はいいひとなのだろう。

嵐山の小説で唯一覚えているのは、深沢家の電話を使おうとしたら、ひとの家の電話を使うやつは泥棒と同じだ、とののしられたというエピソード。もしかしたら、電話にそういう意味の言葉が書かれていたのかも知れない。
もうひとつあった。フツーのひとは、どこそこの蕎麦はうまいよ、などというのだが、深沢は、大宮の○○のコーヒーはまずいよ、一度行ってごらんと言ってニコニコしていた、というもの。
魅力的なことこの上ないひとだと思うけれど、何度も書いているようにわたしは至って小心者だから、こういうひととお近づきになるのはごめんだ。怖いし、疲れる。

しかし、偏屈なようで、フツーのひとがなす儀礼は欠かさなかったようで、いただき物などしたときには、実にまめに礼状を書き、また、折に触れ、自分の農場で出来た野菜や味噌などを、目上の小説家や世話になった編集者など、あちこちに送ってもいたようだ。
律儀な面があったというより、そこにはぬかりない打算もあったはず。ひとことで言えば、庶民の知恵だろう。
『楢山節考』を映画化した監督の木下恵介に、見事な作品と書いた礼状を送っているらしいのだが、それは本心ではなかろう。だって、小説とは似ても似つかないものだもの。書いたあとで舌を出していたのではないか。
平気で二枚舌を使うのも庶民の知恵だ。

とにかく一筋縄ではいかないひとだ。やっぱり疲れる。
以下は、この本に引用されていた、某雑誌の座談会での彼の発言。

人間が増えていくでしょう。だからいっそ、排卵促進剤をジャンジャン飲ませて、ジャンジャン産ませて、みんなで食っちゃう。食糧危機になるからたんぱく質もまにあう。80年経つと、人間は数倍になる。人間が400億人になる。そうすると人間の重さが地球より重くなる。そうすると地球が自転をやめてしまう。バーって宇宙にみんな飛んでいっちゃう。永遠に彷徨う星になる。

まさに七郎節全開だが、なんと愉快で恐ろしいことを考えるひとだろう。

わたしはさほどの愛読者ではないが、やっぱり『楢山節考』は大変な傑作で、これと一緒に文庫本に収められていた『東京のプレスリーたち』も時代を超える若々しさを感じさせる。
それと、晩年の作品では、『極楽まくらおとし図』。安楽死を扱ったもので、死にたいけど死ねないひとの最後を引き受けるのが商売だか役目のひとがいて、寝ている病人をまくらで窒息死させるくだりがなんともリアルで、もの凄く怖い。たんたんと、朝起きて顔を洗うのと変わらない感じでそれをやる。そのように描いている。前述の雑誌での発言に通じるテイストといえば、ご理解いただけるでしょうか。

録画していた健さんの映画を見る。『居酒屋兆治』と『ホタル』。ともに初見、作品としてはイマイチだったが …

前者は山口瞳の小説を原作にしているらしい。健さんと奥さんの加藤登紀子が営む居酒屋にやってくる、いろんな客の山あり谷ありを描いたもの。多分、原作では、客たちの悲喜コモゴモが中心で、兆治は彼等の話の聞き役という役回りではないか。しかし、映画では健さんをそんな地味な役にするわけにもいかずというわけで、健さんと彼のかっての恋人だった大原麗子の話が中心になっている。中心にはなっているものの、大原の、結婚してるのに時々家出して、その挙句、健さんに電話をかけてくる、その理由がはっきりせず、これまた推測だが、小説でもそのように書かれているような気もするのだが、その曖昧さが映画では通じない。シナリオも演出も手をこまねいている感じで、要領を得ないのだ。
軸がしっかりしないので、客たちのエピソードの描き方を大仰にしてなんとか<映画>にしようとしているのだが …

後者の健さんは特攻隊の生き残りで、いまは鹿児島で漁師をしている。田中裕子演じる奥さんは腎臓を患っていて、長くは生きられそうもない、という設定。
昭和天皇の崩御直後。同じ生き残りの友人が、ずっと死に時を探していて、これをきっかけに自殺するとか、田中裕子は、その昔、健さんの上官と結婚の約束をしていて、当然のように戦死してしまう彼は、実は朝鮮人で、物語の終わりを、夫婦で韓国の釜山に住む彼の両親に遺骨を持っていくシーンで締めくくるとか。
エピソードは揃っているのだが、その料理の腕前が …
健さん等の若き日の特攻兵を演じる若い俳優達の芝居が、いくらなんでもひどすぎて、ほとんど学芸会なのだ。なんとかならなかったのか。英霊たちが怒るぞ、ほんとに。

だがしかし。健さんがやっぱりいい、いいとしか言いようがない。そりゃ、健さんありきで作られた映画だから、いいのは当たり前と言われればそうなんだけど。

釜山に行くと、亡くなった上官のおじさんらしきひとから、なんで朝鮮人が殺されて日本人のお前が生き残っているのかとののしられる。このシーンの10人ばかりの親族のひとたちのたたずまいが、緊張感が漲っていてもの凄くいいんだけど、健さん、それにたじろがず、上官が最後に健さんに残した言葉を彼等に伝える、「自分は大日本帝国のために死ぬのじゃない、朝鮮民族の誇りのために、そしてともさん(田中裕子の名前)のために …」、このもの言いが堂々としていて力強く、親族もそしてわたしたち観客も、感銘し落涙を止めることが出来ない。


こんな芝居、健さん以外に誰が出来るだろう。
あ、C・イーストウッドならば出来るかも。

健さんも律儀なひとと言われていて、それを証明するエピソードには事欠かないが、しかし、健さんは<庶民>ではないので、二枚舌など使わない。
だって、スターなんだから。

釜山に行く前に、俺の腎臓をやるから手術をしてくれないか、と奥さんに言う。奥さんは、しかし、手術したって長く生きられる保証はないし …と否定的な返事をする。と、健さんは、次のような台詞を吐く。うつむき加減に。

ふたりの命はひとつだろ。

『居酒屋兆治』のラストはこうだ。
幾つかの死があった挙句、大原麗子の死にも立ち会って。自らが営む居酒屋が看板になって、奥さんも先に家に帰り、店には健さんひとりきり。椅子に座ってしばしの黙考のあと、傍らの一升瓶を手にとってコップに酒を注ぎ、ひと息にそれを飲み干す。と、両目から涙がはらはらと零れ落ちる。
そこへ、健さんが歌う、加藤登紀子作詞・作曲の「時代遅れの酒場」が流れて …

人生、山あり谷ありと言いたげなラストシーンだが、凄い説得力。
両作品とも、これでもかとばかり感動を押し付け、泣かせにかかっているのだが、しかし、わたしが何度も泣いてしまったのは、その種の通俗的な手法に捻られたのはではなく、前田英樹の用語を借りれば、俗とは対極にある、健さんの「立派さ」に心打たれてしまったのだ。

誰なんだ、健さん。前述の歌が凄いんだ。原曲とはおよそ違う。音程も怪しい箇所がある。でも、それがどうしたと言わんばかりに、ドスンとくる。繰り返す。凄いとしかいいようがない歌声だ。

話変わって。
今週はダービーウィークだが、わたしの気持ちは暗い。だって、POGの他のメンバーの持ち馬は4頭も出走するのに、わたしの持ち馬、一頭も出ないのだもの。去年の今頃はキズナ出走で大盛り上がりだったのに …

まさに人生、山あり谷ありですな。わたしは泣くぞ。
トホホ。



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