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「どらいのなつゆめ」パンフ原稿+三国の死 - 2013.04.16 Tue
口上
大抵の人間は、自分が思っているほど利口ではない。もちろん、わたしもそうだ。人間は愚鈍で滑稽で、だから悲惨な生き物だ。遅まきながらこの事実を確認したのは20年ほど前の夏、北海道の牧場めぐりをしていた時。悠然と草を食む馬たちのあまりの気品には知性さえ感じられ、「ああ、彼等に比べて人間は ……」と、わたしは嘆息したのだった。そして、「これは何故?」と考えて得た結論が、「馬は無闇に喋らないからだ」というもの。ナニソレ? という勿れ。
言葉は人間の最大の発明品で、人間が他の動物よりも優位に立てたのも、多分それがゆえだけれど、しかし、言葉に翻弄されているのが人間の常態だ。言葉を振りかざせば振りかざすほど、その人間のよって立つところの脆弱さが明らかになり、愚鈍と滑稽と悲惨が露になる。とりわけ言葉を口にする時、それは際立つ。チェーホフ劇の面白さの根っこは、おそらくここにある。例えば「かもめ」の、作家のトリゴーリンが、女優志望の田舎娘ニーナにあれこれと質問を浴びせかけられ、それに応えるシーン。一見すると、彼はあたかも滔々と作家論や表現論を述べているように見えるが、その語られる内容の空虚さは語る当人にも分かっており、にもかかわらず、彼女の関心を惹きたいという下心も手伝って、喋り続けねばならぬ状況下に置かれてしまった彼。おまけに炎天下である。汗を拭き拭き語っているのであろうその様は、まさに愚鈍と滑稽と悲惨の極みである。
今回の演目に、なぜシェイクスピアを、「なつゆめ」を選んだのか。むろん、選んだのはわたしだが、正直なと
ころ自分でもよく分からない。が、稽古を進めるなかでなんとなく見えてきたのは上記したこと、即ち、喋りまくる人間の滑稽と悲惨を劇の前面に押し出した作品を作りたい、と思ったのではなかったか。ご承知のように、シェイクスピアの台詞は長い。これでもかとばかり重ねられる修飾句。おまけに、非日常的かつ非口語的な言葉からなる福田恆存訳を台本のベースに選んだので、俳優諸君の苦労も並大抵ではない。言葉との苦闘・格闘を繰り返す彼らの奮闘ぶりをとくとご覧あれ。(笑)
改めて思う。誰とも知らぬ観客を前に、必ずしも喋りたいわけでもない言葉を喋り続けねばならない不条理を好んで引き受ける俳優・役者は、人間のなかの人間、即ち、俳優とは、人間のなかでもっとも滑稽で悲惨な人間なのではないか、と。(この無礼な言い草も、悲惨を悲哀と言いかえれば、少しは許して頂けるだろうか?)
本日はご来場、ありがとうございました。
三国連太郎が亡くなり、それについてのインタヴーに息子の佐藤浩市が応えていた。
離婚会見などで、インタヴューに応じる女優さんの堂々たる受け答えに感服したことはこれまで何度もあったが、
佐藤浩市のそれも、立派さという点において、これに並ぶものがわたしの記憶にはない。決して饒舌ではないのに、多くのことが語られていた、それも毅然として。終始、三国のことを「みくに」と呼んでいた。芸人の父子の確執といえば、猿之助・香川照之のそれを想起する。あれもまた、テレビのドキュメンタリーで見たが、壮絶なもので、しかし、彼らは和解したのだった。
多分、家の存続ということがあったからだろう。が、三国・佐藤は互いを俳優としては認めつつ、父・子であることを認めない、その厳しさ。われわれのような凡人とは人間のデキが違うのだろう。
それにしても、佐藤浩市の代表作ってなんだろう? もったいない。
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