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談春の「文七元結」 - 2012.05.10 Thu

昨日の続きと補足から。
「悲劇喜劇」から依頼があった原稿は、「戯曲の方法」というもので。
商売柄(?)、書けと言われれば何百枚だって書けそうだが、2000字でということだったので、「おもに台詞について」書いた。
雑誌が発売されたら、ここに転載するつもりだが、その要旨は以下のようなもの。


あるシーンでのやりとりの内容を決めたら、ふたりの場面が分かりやすいのでそれを例とするが、まずそのシーンの長さ、5分なら5分と決めて、それから、ABそれぞれの台詞ひとつひとつの長さを決める。A5・B2・A10・B3 ……という風に。5分をどういうリズムで、どういう風に分割するかを考えるのだ。
そのリズムの刻み方にこれという根拠はない。勘というものが経験(値)から割り出されるものだとしたら、無根拠を勘と言い換えても構わない。

わたしの知る限り、こんなおかしげなことを言っている劇作家は誰もいない。
なぜこんな方法を思いついたのか。まず、台詞とは、意味を伝える以前に、劇の時間を構成する役割があり、後者の方が重要で優先されるべきことだと考えているからだ。改めて断るまでもなく、音声言語には意味だけではなくリズムや音の響きがあり、紛れもなく、台詞は音声言語であって、意味の伝達のみにその役割を限定するのはおかしくないですかって、きわめて常識的な認識がベースにあるわけです。

上記の認識とは別に、というか、リンクするわけですが、わたしたちの日常会話に費やされている言葉の大半は無意味と言っていいもので、いまそこで言う必要のないこと、言うべきでないことを発語し、更に言えば、何事かを語る必然がないのに語っているのだ。チェーホフが書いた台詞の大半もまたそういう類のもので、あえてチェーホフ以後という形容を使えば、ひとはついに語り得ない、語っている人間はどこか滑稽だという認識のもとに戯曲は書かれ、劇は作られてきたはずなのに、21世紀になった今でも、営々とチェーホフ以前の劇が作られ、まかり通り、なおかつそれが秀作だと言われ高い評価を受けてるってどういうことでしょう、と。
この文脈の中で、運悪く(?)たまたま学生たちに演じられた某若手劇作家の作品を見て、ひどく退屈だと感じ、その原因は、俳優たちが下手だからということより、そもそもこの戯曲の<遅れ>にあって、それで、「このひとの頭の中はいまだに19世紀をさまよってる」みたいな軽い悪口を書いてしまったと、こういうわけです。

要するに、このひとの戯曲だけでなく、いまだに台詞とは作家の言いたいこと=意味だと考えてるひとが大半なわけでしょ。意味で埋め尽くせばいいと思ってて、その<意味>ある言葉は、意地悪く言えば、作家の言いたいことと言うより、読者=観客が喜びそうなことなわけで。はあ、疲れる。

前置きが長くなった、いや長すぎる前置きになってしまいましたが、いざ本題の、先日TVで見た談春の「文七元結」へ。

知らないひとのために、ストーリーをかいつまむ。腕のある職人だがろくに働きもしないで、飲む・打つ・買うで日々をやり過ごしている男が主人公。彼には女房と娘がいるのだが、博打かなんぞして男が家に帰ると、娘がいないと女房が言う。と、そこへ吉原(平たく言えば、大歓楽街)の大店の番頭が現れ、ちょいと店までご同行をなんて言うので、男はついていく。と、店(売春をさせるところ)に娘がいる。そこの女将の話では、父親の借金を返済するために、彼女は自らここへやって来たのだという。あれこれやりとりの後。男は女将から50両を受け取り、2年後には返す、そしたら娘も帰してもらうという約束をする。
で、ここからが話の中心。念のために言えば、タイトルにある文七とは、この男ではなくこれから登場する男の名前だ。男は家に帰る道すがら、橋から下を流れる川に飛び込もうとしている若者を見てしまい、当然のようにそれを引き止める。これが文七。文七は働いている店から集金を頼まれ受け取った50両を落としてしまった。だから、このままでは帰れない、死んでお詫びを、ということらしい。それでなんだかんだ、というお話なんですが。

言うまでもなく、この話の設定された時代は江戸時代で、今とは<社会常識>ですらずいぶん違い、<人間>の作りも違えば、そもそも物語の作り方だって違うはずだ。近松や南北の本だって、いまの常識に照らせば、なんでこんなことするの? といいたくなるような行動が平然と描かれている。
いまの常識に照らせば、明らかな無理筋をなんとか成立させようと、つまり、いまを生きるわたしたちにもなるほどと思わせるために、あれこれ考え苦闘したのが談春の師匠の談志で、談春も師に倣ったのだろう、死のうとする文七を止めるために男は言葉を尽くす。しかし、理屈・言葉を尽くせば尽くすほど、即ち、登場人物がわたしたちの感覚や常識に近づけられれば近づけられるほど、皮肉なことに、彼らは精彩がなくなり、言うなればちんまりとした人間になってしまうのだ。

なぜか。おそらく、先に記した「チェーホフの断念」、即ち、言葉(を語ること)は虚しく、しかしそれは滑稽でもある、という苦く重い認識が決定的に欠如してるからだろう。
更に言えば、時代背景とは関係なく、そもそもひととは不可解なもので、その不可解さを笑うのが落語ではないのか。それはいわゆる人情噺に分類されるこの話も同じである。
不可解を解釈してどうするの? 行動に必然がない? ないんですよ、そんなもの。ひとは平気で飛躍もし、わけのわからないことをするんですよ。それは古今東西変わらないわけで、どうしてこっちの<変わらない>方にピントを合わせないのか、わたしにはほとんど理解がいかない。

師に似て、どこか上から目線の談春。その苦闘ぶりには敬意を覚えつつも、結局こいつはなにも分かってないんじゃないかと思った次第。ま、今時、幇間のような振る舞い=身のやつし方をすることになんの抵抗も躊躇いもないような多くの噺家は、論の外ですが。


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