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2014-08

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ミアを見よ! - 2014.08.29 Fri

アギーレにパクられた?!
ジャイアンツが勝った翌日には必ず買うことにしている報知新聞を見ると、サッカーの新しい日本代表選手が選ばれた記事があり、アギーレの選出理由も書かれていて、それは以下のようなもの。

「試合時間90分を22人の選手で割ると、ひとりの選手がボールを持っている時間は約2分。わたしは残りの88分にどういう質の仕事をするか、それを見たい」

2分という時間の割り出し方がよく分からないのだが、それはともかく。これは、これまでもこのブログで何度か書いてきた、わたしの「俳優の仕事」に関する基本的な考えとまったく同じだ。
曰く「大半の俳優は、舞台上で沈黙を余儀なくされている。主役の俳優だって、上演時間の半分以下しか台詞を語っている時間はないはずだ。にもかかわらず、俳優は台詞の言い方ばかりに神経を使っている。いわゆるワークショップと称されている催し物でも、教える・教えられることの殆どは台詞の言い方なのではないか? これはおかしくないか?
アタマを使うべきは、舞台にいながら自分の台詞がない時間を「表現」とするにはどうしたらいいのか、なのではないか。

「アルバート氏の人生」を見る。小説であれ映画であれ、タイトルに人生などという言葉が入ってるものにロクなものはないという偏見から、ずいぶん前に録画してあったのに今まで見ないでいたのだが、女性であることをひた隠し、男性として生きた、生きざるをえなかったひとのお話というのが気になり、ようやく見た。二週間ほど前であったか、TVで女性同士で結婚したふたりのインタヴューを見て、いろいろ考えさせられたことも見るきっかけになった。

結論から書くと、これはまあとてもよく出来た映画で、シナリオも演出も、美術、照明等のビジュアル、音楽、登場する俳優たち、どれをとってもほとんど隙がないのだ。むろん、キワものではなくマジメな、真面目すぎるといっていい映画である。

グレン・クローズ演じるアルバート氏は、14歳のとき5人の男たちにレイプされ、それをきっかけに男として生きることにする。ボーイ・ウエイターとして、各種の飲食店を転々、いまは高級ホテルの有能なウエイターにまで上り詰めている。この間、コツコツとお金を貯めていて、彼(彼女?)の夢は、その貯金を元手に自分の店を持つこと。
そして格好な物件を見つける。あとは、余生をともに過ごす妻だ。アルバート氏は、ホテルの同僚である若いウエイトレスに白羽の矢を立てるが、彼女にはやはり同じホテルで働く若いボイラーマンの彼氏がいる。彼女はその彼に、アルバート氏に付き合ってほしいと言われたことを告げると、男は適当に相手をしてやって金を搾り取ってやれと彼女に助言する。
そして …

この若いウエイトレスを演じるのがミア・ワシコウスカ。
映画の初めから、この女優さんが気になっていた。さほどの台詞がなく、年配者が多く登場するこの映画の中ではほんの彩り程度の役ではないかと思っていたのだが、それにしては、台詞のない時の、鋭いけれど寂しさ(絶望?)を感じさせる眼差しが …。たまらない。
どこかで見たことがあるような気もするが、可愛いけれどとりたてて美人でもないこんな顔はよくあるから …。
見終わったあとネットで調べたら、なんとなんと、あの「永遠の僕たち」に出ていた、余命いくばくもない可哀そうなアノ役を演じた女優さんだった。そうだ、「永遠の …」を見た時も、この子は明らかにわたしのタイプだが …と思って調べてみたら、「アリス・イン・ワンダーランド」でアリスをやっていた女の子だったのだ。

フツーに考えれば、印象に残らない俳優はダメな俳優さんで、だから皆いかに目立つか、いかに前に出るかを競い合い、そして無様な結果を招くのだが、彼女は物語の中心にいながら、しかし、中心からは少し外れたところに立って周囲に
鋭い眼差しを投げかけている。まるでサッカーのボランチのように。そして、前に出るべきところでは前に出るのだ。もちろん、監督の指示もあろうが、多分彼女は賢明な女優さんなのだろう。
いい、とてもいい! 若いのに攻守に隙のない、使い勝手もいいこの女優さん。彼女がサッカー選手なら、アギーレも間違いなく代表選手の中に加えるだろう。

この渋すぎる映画の監督は、あのガルシア・マルケスの息子だと知って驚く。長らくこの企画を温め続け、ようやく実現させたグレン・クローズは、脚本にも名を連ね、入魂の演技を見せている。
舞台は19世紀のダブリン。これまた、ずいぶん昔に買ったまま読まずにいたジョイスの「ダブリン市民」を、本棚から探し出して早速読まねば。

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贅肉の幸不幸 - 2014.08.28 Thu

ようやく涼しくなったのでウォーキング再開。朝食前に1時間。
会うひとの誰もが申し合わせたように、「太りましたね」と言う。確かに。自覚あり。外観などいまさら気にしても仕方ないが、太ると日常生活に支障をきたす。ビローな話で申し訳ないのですが、トイレで大の用を足したあと、お尻を拭くのに腹が邪魔になって苦労をするし、服・ズボンがどれもパンパンで苦しい、等々。暑いと運動不足になり、にもかかわらず、有難いことに食欲は減退しないし、それに加えて、歳をとると基礎代謝が低下するから必然的に太ると、こういうことである。

久しぶりに「汚れた血」を見る。10年ぶりくらいか。
1986年公開。確か舞台美術家の島(次郎)さんと電話で雑談していて、最近なにか面白いもの見ました? という話になり、島さんが「汚れた血」を推薦したので見に行ったのだ。
ほんとかな? と半信半疑ででかけたのがよくなかった。面白いどうこうのレベルではなく、脳天を丸太で殴られたような衝撃を受け、生まれて初めて自分より若い才能に嫉妬し、いや、すっかりひれ伏してしまい、二度と映画を撮りたいなどとは思うまいと思ったのだった。
それから何度か若い知人と映画館に見に行って、家でビデオを繰り返し見るうちに、大変な映画であることに間違いはないが、若いからしょうがないけど、なにもこんなに力み返らなくてもな、とか、カッコつけ過ぎだろとか思うようになって、最初の衝撃も薄れていった。
しかし。10年ぶりに見る「汚れた血」は、驚いたことに鮮度が増していた。多分、わたしが歳を重ねて、作家の野心などという卑しい気持ちが薄れ(なくなったわけではないが)、対象に対して冷静に接することが出来るようになったからだろう。

衛星劇場で「男はつらいよ」シリーズの連続放映が始まり、それにあわせて、関係者へのインタヴューをまとめた「寅さんスペシャル」なるものも流されているが、その中で、寅さんの妹役を演じた倍賞千恵子さんが、「渥美(清)さんには、贅肉がない」という、監督の山田洋次による渥美評を語っていた。
もちろん、痩せていたという意味ではなく、演技に無駄や余計がないという意味で、これは、渥美清だけでなく、高倉健さんも、そして、「汚れた血」の監督、レオス・カラックスも無駄なことはしないのだ。いや、より正確にいえば、優れた表現(者)は、過剰ささえも無駄・余計と感じさせないで、魅力・特性に変えてしまうのだ。

「汚れた血」の主人公・アレックスは子供の頃、「おしゃべり」と呼ばれていたという。それは、彼がおしゃべりであったからではなく、まったくしゃべらない子供だったから、皮肉をこめてつけられたニックネームなのだ。このセンス!

アレックスの父はギャング一味に関わっていたが、ある日、不可解な死に方をする。ギャング達は、大きな仕事の準備中で、彼がいないとその仕事が出来ない。父は金庫の鍵あけの名人だったのだ。そこで、父の血をひいたアレックスを仲間に引き入れようとする。アレックスは天才的な手わざの持ち主で、街頭でトランプやボールを使って、客に正解の札・球がどこにあるか当てさせる賭けをして、それをメシのタネにしている。
大きな仕事とは、いま世界を恐怖のどん底に陥れている、エイズに似た病気を治す特効薬を盗み出す、というもの。
アレックスは仲間に加わり、盗みを実行するのだが …

というようなストーリーは、この映画にとってはほんのお飾りのようなもので、描かれているのは、台詞でも語られる「疾走する愛」、ただこれだけだ。映画の中で起こることのすべてが、あらゆるカット、俳優の仕種、台詞、色彩、設定の細部、音楽等々、すべてがこの一語に収斂している。例えば、エイズを思わせる病気は、愛のないセックスをすると発病し、そして死に至る。
こんなに明晰で激しい映画は他にあるだろうか。

アレックスが愛してしまう女性は、名優ミシェル・ピッコリ演じるギャングのボスの女で、当然、叶わぬ恋だが、それがゆえに愛は疾走するのだ。また、アレックスに恋する若い女の子がいて、彼女はバイクでアレックスを追いかける、まさに疾走する愛を地でいく女の子。
このふたりの女性を演じるのがジュリエット・ビノシュとジュリー・デルピー。ふたりとも凄絶というほかない美女・美少女。
異様に肌が白く、それが死者を思わせ、凄絶という形容はそこから来るのだが、疾走する愛とは死への過度な傾斜なのだから、彼女達の肌の白さは、この映画のなくてはならぬ要件として機能している。ボスと彼の同僚の年老いたその裸体の醜さも同様である。死につつあるモノにしか見えない。

この映画を知る誰もが語る、まさに「疾走する愛」そのものといった、デビット・ボーイの「モダン・ラブ」をバックにアレックスが踊るシーン、あるいは、空高く舞い上がった落下傘での女(失神している)とアレックスの長い抱擁、その他の素晴らしさは、わたしの筆の及ばぬところで、見ていただく他ない。とりわけ、映画を作りたい、小説を書きたい、などと思っている若い人は、この映画に触れて、自分がいかに凡庸なものであるかを確認していただきたい。ま、余計なお世話ですが。

26歳にしてこんな映画を撮ってしまったレオス・カラックスは、その後、「ポンヌフの恋人」「ポーラX」、そして、東京を題材にした短編を撮って、いまは長い沈黙の中にいる。いまは50台半ばか。もう映画は撮らないのかな?
天才の不幸を思わずにいられない。よかった、凡才で。贅肉に悩むわたしは、いまだに作家活動を続けられている。





<平均>と<異常>の危うさ - 2014.08.25 Mon

先週末、またもや各地で集中豪雨。わたしの家近辺でも、時々、思い出したようにもの凄い雨が降り、肝っ玉の小さいわたしは、ああ、世も末じゃと、その雨音の激しさを耳にする度に震え上がった。

「異常気象」という言葉が連発されているが、しかし。
そもそも異常とはなにか。字句通り解せば、(正)常とは異なっている、ということだ。即ち、雨量で例えれば、この10年なり、50年なりの、8月の降雨量の平均があり、それとは大きく異なった場合に、異常と形容するのだろう。しかし。
そもそも「平均」とはおかしなものではないか。仮に、京都の8月の平均降雨量が100ミリだとして、今年は1000ミリ降ったが、来年から9年、一滴も雨が降らなかったら、この10年の平均降雨量は、100ミリとなり、例年通りでなんらの異常も認められない、ということになってしまうのだ。逆に、毎年毎年、きっちり平均の100ミリづつ雨が降ったとしたら、こっちの方が異常ではないか。

数日前、NHKTVで、タイトルはなんであったか、「面前DV」に関する番組を見る。
面前DVとは、直接DV被害を受けるのではなく、DVの現場を見てしまう、見せられてしまうことで、とりわけ小さなこどもは、そんな体験を繰り返す中で、心に大きな傷を負ってしまう、というのだ。
番組には、その被害者であるふたりのこども(と家族)が紹介されていた。

ひとりは中学生の女の子。日常的に繰り返される母親に対する父親の暴力。女の子は、まったく無抵抗な母親に感化され、学校でいじめにあう。クラスメートからどんな理不尽な要求をされてもそれを受け入れ、そのために要求の理不尽の度合いがどんどん過激になっていって …
これもありがちなことだが、哀しいことに母親の母親もDVにさらされていたらしい。
母親は、娘のいじめを知り、なんとかしなければ、自分が変わらねばと、DVを克服するための教室(?)に通うことになる。綿密なプログラムのもと、講師の助言によって、彼女はいかに自分の生き方が誤ったものであったかを知る。
講師は彼女(たち)にこんなことを問う。「夫に殴られるのは自分が悪いからだ、と思っていないか」「あなたは嫌われることにおびえているのではないか」と。でも、それは間違っている。「もっと自分を大切にしなさい。自尊心を持ちなさい」という。
母親は、自分が教室で学習したことを娘に伝え、娘はけなげにも、「自分が将来結婚をするとしたら見た目や経済力の有無ではなく、、(母の間違いを繰り返すことなく)優しい男のひとを選びたい」なんてことを言う。

もうひとりは高校生と思われる男の子。いまは母と弟の三人で生活している。彼は、殺してやりたいと思うほど今でも父を憎悪しているのだが、これまた哀しいことに、なんと憎んでいるはずの父を模倣するように、母と弟に日常的に暴力を振るっている。おそらく、父親のいない家庭では、自分が一家の柱にならねばという過剰な責任感を抱え、しかし、一家の柱のモデルは父親以外になく、それでそんなことになってしまったのだろう。あるいは、父の暴力から母を守ることが出来なかった自責の念が、憎悪の対象である父の模倣をするという<自傷的行為>を選ばせたとも考えられるが。
ともかく。彼もまたディレクターの勧めに従って、(DV被害者の教室ではなく)DV加害者のカウンセリングを受けることになる。カウンセラーは彼にこんなことを言う。「きみは(相手に)勝とうと思いすぎてるんじゃないか。だから、弟のちょっとした
口答えにも過剰に反応して暴力を振るってしまうのだ。暴力はいけないと思ってるわけだろ。だったら、そうなりかけた時には、勝たなくてもいい、勝たなくてもいいとひとりごとを言いなさい。そうすれば高ぶった気持ちが静まるはずだから」と。

講師・カウンセラーは、被害者には、自尊心を持て、強くなれと言い、加害者には、強くなくていい、即ち、自尊心を捨てろと助言していて、要するに、彼等は被害者・加害者に「平均的であれ、フツーになりなさい」と言っているのだ。
というか、これは彼等の考えというより、番組の作り手の基本姿勢なのかもしれない。言うまでもなく、10人10色で、とりわけDVともなれば、こんな一般論で片付くはずもないのだが。

話が長くなったが、わたしはこんな実例を知っている。身近にいた女の子が、やはり父親が日常的に母親に暴力をふるい、それを逃れるために彼女は高校時からひとり住まい、姉は職場の寮に逃れ、母親は大袈裟でなく日本各地を転々。
しばらくして、父が事故で亡くなる。確か、家の階段から落ちて頭を打ってというようなものだったと記憶しているが、家族がいればすぐに病院に連れていけ、そうすれば亡くなることはなかったと、彼女はひどく傷ついていた。
で、わたしはその父親の葬儀に参列したのだが、そこでひどく驚く。父親は一部上場の会社の社長(後に会長)のお抱え運転手を長く勤めていて、その社長が葬儀の弔辞を読んだのだ。その事実だけでも父がどれほど誠実な勤務ぶりであったかが分かるが、読まれた弔辞もそのことが書かれていて、読んだ当人も、参列した会社の同僚も涙々で、わたしも貰い泣きしてしまった。
社長は、日ごろの鬱憤を車の中で、運転手である父にぶつけていたのだろう。弔辞の中で、社長は彼に支えられていまの自分がある、というようなことも言っていた。多分、社内人事の悩みや今後の会社の方針等々、他人に洩らしてはいけない秘密も多々聞かされ、それを抱え込むストレスは想像して余りある。そのストレスのやり場を家庭・家族、とりわけ妻に求めたのだろう。しかし、これはもちろん憶測に過ぎないが、奥さんにはそれを受け止める容量がなく、それで暴力に及んでしまったのではないか。だから彼の暴力を認めよというのではないし、奥さんを責めるつもりもない。その時わたしが思ったのは、不幸な組み合わせだったんだ、と。

ひとは誰も多面的で、いろんな顔を持っている。時と場所に応じていろんな顔を使いわけているのだ。だから、時には、フツーから大きく逸脱し、あのひとがこんなことを?! なんてことも言ったりやったりする。
それを異常というならば、ひとは誰も程度の差はあれ、<異常>を生きているのだ。

この星は、海洋惑星 - 2014.08.22 Fri

8月も終盤。子供の頃はこの時期になるといつも、夏休みの宿題をこなすのに大わらわだった。
絵日記には苦労した。わたしは文字通りの三日坊主だったので、休みに入った最初の2,3日だけ書いてあとは白紙。だからまず、新聞を取り出してその日の天気を確認。それから中身を書くわけだが、そんなもん、過ぎたことは忘れるというのが子供の頃からのわたしの流儀だから、あることないことというより、ありそうなことをひねり出しでっち上げ。
もしかしたら、あの嘘八百を書き連ねた夏休みの絵日記が、わたしの創作活動の原点なのかもしれない。
自由研究みたいなものは、ほとんどやった記憶がない。やらなくても許された。というか、先生にそれで怒られた記憶がない。なぜ? ま、優等生だったからでしょうか? わたしは多くの人に甘やかされて育ったんです。

夏休みの自由研究というと、今でも鮮明に覚えていることがある。多分、4年生だったと思う。近所に住んでいて遊び仲間だったKが、凄いものを作った。時代劇のカツラ。月代(さかやき)が伸びたヤクザもんのそれを、室内用のほうきの先を集めて作ったのだ。ちゃんと被れた。いったいどのようにしてそんなものを作る知識・技術を手に入れたのか分からないが、それは誰もがへーとかほーとか声を上げる見事なものだった。

先週のお盆に帰省した。昔は、墓参りなどということにほとんど関心がなかったというか、その必要性(?)を認めてなかったが、10数年前に母が亡くなり、その2年後に弟も亡くなり、ということがあって、それからはほぼ毎年、実家に帰ってお参りしている。
実家に帰ると確かにホッとする。でも、そのホッとしている自分に違和感があるというのか。多分、わたしはザワザワしている状況に身をおいている状態の方が好きなのだ。

河野哲也『境界の現象学』読了。この本の帯には、以下の惹句が書かれている。

皮膚、家、共同体、国家。幾層もの境界を徹底的に問い直し、まったく新しい世界のつながり方を提示する。

まったく新しいかどうかはともかく、幾度もなるほどと頷かされた。
最終章「海洋惑星とレジリエンス」はこんな文章から始まる。

私たちの住む星が変化して止まない海洋惑星であるとすれば、私たちを取り囲む境界はどうなるのだろうか。境界を引くことには意味がなく、境界の内側の安定性や安全、ヘスティアのもたらす安らぎは、求めても得られず、求めるべきでもない幻想なのだろうか。家がもたらすと考えられている個人の生命、健康、安全、安定、プライバシーといったもっとも基本的な人権は、どのように保障され、ケアされるのだろうか。
私たちが問うべきは、これらの人間にとって重要な条件は、何かから囲い込むことによって保障されるのかということである。私たちの存在は何かの内側にいることによって安堵されるものだろうか。

台風や大雨の影響による各地の惨事。ニュースなどで、家が土砂で埋まり、崩れ、あるいは道路が川のようになっている光景を目の当たりにすると、前述の言葉がことさらにリアリティをもって迫ってくる。






続「ヘスティア的、ヘルメス的」 - 2014.08.12 Tue

武の映画は、ヤクザ・暴力系とお笑い系と、ほぼこの二つに分類することが出来る。あえて言えば、前者はヘスティア的、後者はヘルメス的ということになろうか。
もちろん、ふたつの傾向をミックスしたものもあり、「3-4×10月」「ソナチネ」「キッズ・リターン」等がそれで、面白いのもこの系統だ。いずれも初期の作品。
「ソナチネ」は、ヤクザ・暴力系の色濃い作品だが、沖縄で武が組の子分たちと子供じみた遊びに熱中する幾つかのシーンは格別で、浜辺で子分たちが紙相撲振りで相撲をとるシーンの楽しさは忘れがたい。また、同じく夜の浜辺で、みんなで花火を銃撃戦のように打ち合うシーンの楽しさ・美しさも素晴らしく、更にこのシーンは、映画の終盤に用意された、屋内の暗闇の中での本物の銃撃戦に重なり、虚実を一体としたその映画的なレトリックの見事さに舌を巻いた。
どういう事情があったのか、わたしの知るところではないが、作品を重ねるにつれて、ヘルメス的傾向、即ち、フットワークの軽さが失われ、なんだか妙に深刻ぶった、退屈極まりない「アウトレイジ」2作につながる。

「そして父になる」
福山雅治・尾野真千子夫婦には5歳の息子がいる。一方、リリー・フランキーと真木よう子夫婦には3人の子供がいて、長男が5歳。このふたりの男の子が、実は産院で取り違えられていることが5歳になったときに判明し、さて、どうしたものかと、両夫婦、とりわけ、福山が悩みに悩んだ挙句、出した結論は …? というのが話の主な内容。
この映画の監督、是枝裕和の作品もほぼ全部見ているが、面白いと思ったことがほとんどない。
よく言えば、丁寧に丹念にお話を紡ぐのだが、わたしにはそれが、単に段取りを型どおりにふんでるだけで、カッタルイとしか思えない。
この映画も、そんなわたしの先入観を裏切ることはない。
福山は大手デベロッパー(?)のエリート社員で、リリーは、田舎の町の電気屋を営んでいるが、認知症の父親も含め6人の家族がおり、妻も生活のために弁当屋のパートとして働いている。
福山はエリート社員という設定を裏切ることなく、仕事仕事で家庭を省みることが少なく、子供との接触は稀だ。一方、リリーは、仕事が暇であることも手伝って、昼となく夜となく、子供たちと楽しそうに遊んでいる。
更に。福山は、彼が幼時のときに母が家を出て行ったという<事件>があって、父への不信感がいまに至るまで消えず、後妻に入った女性にも馴染めず、実家を訪れることはほとんどない。
要するに、幼時期、父との接触が希薄であったことが、彼の父としての振る舞いを困難にし、あるいは、躊躇わせてもいて、そんな男が、はたして<父>になりうるのかと、そういう話なのだが …‥
それにしても、このあまりにも分かりやすい、好対照を絵に描いたような両家・両者の設定はどうなんだろう?

これまた、先の分類に従えば、福山家はヘスティア的、リリー家はヘルメス的と言えそうだが、河野哲也は、剛体、流体という言葉を使って世界の仕組みを分類している。

(リュス・イリガライによれば)西洋哲学は、地水火風の四元素のうち、土・地に特権的な地位を与え、地の剛体性を基本メタファーとした存在論を形成してきたと指摘する。(中略)個人のアイデンティを強調する実存哲学も、人間のあり方を堅い物質であるかのように捉えている。男性の存在論は、流動的な存在、とくに空気を無視する。空気は、形がなく、境界がなく、組み立てることができない。男性の存在論の規定にそぐわない存在だからである。イリガライの表現を使えば、女性は移動する存在であり、「流体」である。
しかし、私たちは、空気のなかにこそ住むのであり …

この「剛体・流体」理論に従えば、福山(家)は剛体的、リリー(家)は、流体的ということになろう。このことは、前者の住まいが都会の高層マンション、後者が田舎の職住兼用のボロ家であることで、これまた図式的に示されている。
前回、サッシのない我が家が暴風雨にさらされ、その無防備が家族の絆を確認させたと書いた。という例にならえば、イソップだかグリムだかの「三匹の子豚」の、わらの家より、木造の家より、レンガ造りの家こそベスト、という教えは、家庭・家族解体の勧めだった、ということになる。

上映時間130分がいかにも長い。それは前述したように、前半の、福山家に流れる微妙なすきま風の描写が丁寧すぎる等々が遠因になっているのだが、なにより、息子を取り替えることになった決定的な事柄がはっきり示されないために、息子が取り替えられて以降、あれやこれやがただただ感傷にまぶされて進行していく、そのカッタッルさが、長いと思わせたのだ。

わたしには分からない。子供を取り替えるべきかどうかで、とりわけ福山夫妻は悩むのだが、そんなもん、夫婦が別れても、子供が父・母の家を行ったり来たりしている例などフツーにあるのだから、籍は移しても、子供たちはふたつの家庭・家族の間を自由に行き来すればいい、という結論を下せば済む話ではないか。そして、その中で、福山は父親としての学習を積んでいく、剛体から流体への変化の過程を描けばよかったのだ。

この映画での見どころは、尾野真千子と真木よう子。さして興味のなかったふたりだが、なぜ最近この女優さんふたりが重用されているのかが、この映画を見てよく分かった。上手いです。









ヘスティア的、ヘルメス的 - 2014.08.12 Tue

先週の土日、台風が吹き荒れた。競馬が中止になるかと思われた日曜。我が家の窓の外では、風が唸り雨は窓ガラスを激しく叩き続けているのに、TVに映る札幌・新潟・小倉の各競馬場では、なにごともないかのように、通常通り競馬が行われているので、とても奇異な感じがした。

サッシというものは、いつから家庭に導入されるようになったのだろう。
わたしが子供の頃は、台風が来るとなると、家族総出で、雨戸に十字にした板を打ち付けたものだ。なぜ? 雨戸が風に吹かれて飛んだり、雨戸の揺れが窓ガラスを割るのを防ぐためにです。
また、台風と言えば停電だ。台風時に限らず、昔はよく停電があった。だから、どこの家にもろうそくがあった。いま、ろうそくなんてフツーの家にはないでしょ。
我が家には蔵があって、家が危ないかも、ということになるとみんなでその蔵に避難した。激しい雨風におびえる私たちに、母はいつもこんなことを言っていた。「うちの蔵がダメなら、日本中どこにいたってダメだ」と。
一本のろうそくのもとに家族が不安を抱えながら肩をよせあっている光景。思い出すと、ウルッとしてしまう。

場所についての現象学を展開しているエドワード・ケイシーは、人間の住み方には根本的に二つの様相があると主張する。ひとつは、ヘスティア的な住み方であり、もうひとつはヘルメス的な住み方である。
ヘスティアとは、ギリシャ神話におけるかまどの女神であり、家と家族的生活の中心である炉端を象徴する。(中略)
よって、ヘスティア的住み方とは佇むことであり、留まることであり(中略)共に居続けることである。(中略)
他方で、ヘルメスは、その韋駄天で知られるギリシャの神である。(中略)彼は、道路、旅行者、横断の神であり、国境の守り手であり、(中略)盗賊と嘘つきと悪知恵の庇護者、運動とコミュニケーション、水先案内、交換と商業の神である。
                                                      (河野哲也「境界の現象学」)

二本の日本映画を見る。ともに、公開当時評判になっている。

「アウトレイジビヨンド」
北野武は「ソナチネ」で終わっている、というのがわたしの評価だ。
前作の「アウトレイジ」は、悪人ばかりが出てくる、みたいな触れ込みであったが、ただただドンパチやるだけで、だから悪いのか? というようなまことに寒々しい映画だった。今回も同様の印象。
設定されている時代がよく分からない。このブログでも紹介した溝口敦の「溶けていく暴力団」によれば、ヤクザはもう斜陽産業もいいとこで、例えば、他の組の幹部クラスを殺すために鉄砲玉になる、あるいは、自分はやってはいないけど身代わりになって刑務所に入る等々を、若いヤクザが引き受けたのは、刑期を務め上げて出てきたときには、それ相当の身分が約束されていたからだが、いまはもうそんなご褒美などなく、それどころか、発砲などすれば組が解体に追い込まれかねないので、そんなことは組織的に許されないのだ。こんな情けない現状だから、血気にはやる若者はヤクザになんか憧れないし、そもそも、ヤクザ組織は疑似家族として成立しているのだが、多くの若者は、親分子分、つまり親子関係をウザイと思っているから、もうなり手がいない。だから組としても、せっかく入ってくれた若者を無闇に鉄砲玉になんかしないのだ。この映画はそんな実情とはまったく関係ないところで作られている。
あるいは。昔は、組のものが刺青を入れるというと、組・親分がその費用をもったらしいのだが、いまはもうそんな金銭的余裕もないという。これなんか使えそうなのに。
映画の中で、若いヤクザが殺されて、ゴミ置き場みたいなところで裸で転がされているシーンがあったが、彼等の背中の刺青が、お金が払えなくて中途半端なものになってるとか、その刺青は絵具かなんかで描いてあって、だから雨に打たれて半分消えかかってるとかすれば、彼等の死の無残さも強調されるし、第一、笑えるでしょ。
みんななにかを言えば大きな声で怒鳴るけど、いまどきそんなヤクザがいるのかな?
対抗する組が存続をかけてアレコレ駆け引きをし、その間で、小日向さん演じる刑事がチョコマカするんだけど、みんなアタマが悪すぎて、このアタマの悪さが、彼等の悪党振りをチンケなものにしてしまってる。
結局、武が書いているらしいホンが悪い。誰かしかるべきひとに頼めばいいのに、とずっと思っているのだが。
ワンシーンというかワンカット、「おっ」と思ったところが。組のトップから引き摺り下ろされた三浦友和がパチンコをしていると、スーッとその隣にひとがやってきて、ドスで刺し殺してしまうのだが、それが武。フツーの俳優がやると、どうしても殺気やそれなりの気配を感じさせるのだけれど、それがない。通行人みたいに現われてブスッ。凄いと思った。

「そして父になる」について書こうと思ったが、長くなったので今日はここまで。


近大舞台芸術専攻卒業公演パンフ原稿 - 2014.08.07 Thu

 鴻上さんの芝居を初めて見たのは多分、80年代半ば。知り合いから、「是非見てほしい」という彼からの伝言を聞き、早稲田の大隈講堂脇に設置されたテントでの公演を見に行った。予想していた以上に面白かったので、その旨を記した手紙を彼宛てに書き、そして、丁寧な返信を受け取った。再度のやりとりがあったかも知れない。もう30年近く前の、この公演に参加している諸君が生まれるはるか昔のこと。懐かしい。
 久しぶりに鴻上さんの戯曲を読む。「エゴサーチ」。劇が始まって間もなく提示される「謎」が、めまぐるしい場面転換と時制の往還が自在に繰り返される中で、劇の進行とともに解き明かされていく。これは、デヴュー以来一貫して採用してきた鴻上スタイルだ。
 戯曲で指定された場数は32、暗転(照明F・O)は7回。実際の舞台がどうなるのか知る由もないが、この数字を単純に受け止めれば、シーン変りの大半は暗転せずに、装置の転換なしになされることになる。この方法をどのように理解すればよいのか。
 わたしは、ひとは常に時間・空間に投げ出されており、時や場所が変わればそれに応じてひとは変わると思っており、その<変わり目>こそが劇的なるものの核だと思っているが、鴻上戯曲の登場人物たちは、どれほどの時間が経過しどんな空間にその身を置こうと、まったく変わらない。いやそれどころか、登場人物たちに付された名前や職業は、仮の名、仮の職業で、一色が田中になろうと編集者が学校の先生であろうと、物語の進行にはなんの支障もなく、理解の妨げにもならないように思える。これはどういうことか。
 結論を急ごう。わたしがわたしであることの困難と危うさ、あるいは、わたしはどこかの誰かと代替可能な存在に過ぎないのではないか、という彼の世界認識が、このような方法をとらせているのだ。一言にまとめれば、身体(性)の喪失ということになろうか。
 何ゆえに諸君が卒業公演の演目としてこの戯曲を選んだのか。これまたわたしの知るところではなく、あるいは単純素朴に、先に記したあまりに切なく苦すぎる世界認識を包む、用意周到な甘い糖衣に惹かれたのかも知れないが、しかし、ネット社会に根こそぎもっていかれそうな過酷な現在を生きる諸君の意識下の声が、「これを!」と呼びかけたとすれば、「嗚呼 …」とわたしは嘆息せずにいられない。

応答せよ。応答せよ。 - 2014.08.04 Mon

『境界の現象学』(河野哲也著)に挟み込まれていた筑摩書房新刊案内に載っていた『こちらあみ子』。
作者の今村夏子さんはこの小説で、太宰治賞と三島賞を貰ったらしい。
ネットで検索すると、太宰治賞の選者のひとりである荒川洋治氏が絶賛、とある。
これは読んでみねばと、amazonで注文。以前、このブログで本屋さんがどんどん消えていくことを嘆いたわたしが、アマゾンである。こんなことしてるから本屋が …と思いつつ。でも。すみません、近くに本屋がないんですよ。

今日届いて、早速読む。
ネット上でも絶賛の嵐で、簡単な紹介の文章を読むと、タイトルにもなっている「あみ子」という女性がちょっと変わってて、それが魅力的で、最後は泣ける、とある。
うーん。そうか?

一度読んで、そんなに長いものではないので、もう一度、ざざっと読むと、とても技巧的に書かれた小説であることが分かった。少し変わったところのある少女は前歯が三本なくて、どうしてそうなってしまったのか、その謎を、彼女がどんな環境下に置かれていたのかと重ねながら、解き明かしていく。
でも。わたしは、もっと変な、あまり似たものがない小説ではないかと勝手に想像していたので、なんとなく肩透かしを食らったような気分。これはフツーの小説好きが好む、巧く書かれたフツーの小説ではないか?

「あっ」と思った箇所が一箇所。それは …

「あみ子のは地団太じゃ」と、いつだったか言われたことがあった。小さな町に溢れるすべての音がまるで幻のように遠くで聞こえる夕方だった。見上げた屋根の上には高いところから降りてきた雲があった。そこに射しこむ昼間の太陽の残りが、平たい雲を金色に輝かせてみせていた。そのとき袖なしの白いワンピースを着ていたあみ子は、赤い実をとろうとジャンプした。

ま、これだけ抜いてもなんのことだか分からないと思いますが。

「moon guitar」を書くとき、これをなんとか使いたいと思った本のワンシーンがあった。
それは『人はなぜ探偵になるのか』(朝日文庫)の中にあって、著者は靏 井通眞というひとで、「損害保険調査員の事件簿」という副題がついていて、これは著者が実際に関わった事件をもとにして書かれたもの。

使いたいと思ったのは、「第八章 孤独な探偵はUFOを目撃する」であった。
探偵は、仕事を終えて家に帰るために電車に乗っている。夕方だが、車内はまばら。

私は無性に人なつかしい気分になって、車両に乗りあわせた一人一人に話しかけたくなっていた。だが、誰も申しあわせたように口をつぐみ、私の無遠慮な視線にさえも気づかないようだった。(中略)
私はまた妙な気持ちに誘われた。作業服の二人が上半身をかがめ、首をねじまげて背後の窓の外をうかがっている。母親連れの女子高生は身を乗り出してまっすぐ前の窓に見とれている。
私は何かを予感しながら、三人が熱心に凝視している方角に視線を向けた。淡いオレンジ色の半透明の光をまきこぼしながら …‥(中略)
それがUFOらしいと気づいたときから、私はこのことは誰にもしゃべるまいと決意していた。誰にしゃべっても誰も信じない。(中略)UFOを目撃するとは孤独なことだったのだ。いや、そうでないかも知れない。孤独な人間が誰とも共有しえない経験、したがって誰からも制約を受けない世界にひたりこもうとしてUFOにでくわすのだとも考えられよう。

学習障害かなにかなのか、とにかく誰からもまともに相手にされない小学生のあみ子が、大好きな「のり君」とふたりで下校する道すがら、昨日の自分の誕生日に父からもらったチョコレートでコーティングされたクッキーの、チョコレートをなめてしまってクッキーだけになったモノをのり君に「食べんさい」と言って渡し、のり君は、「おいしいじゃろ」と聞くあみ子に「普通じゃ、しけっとる」と言いながら、一箱全部食べて、食べ終えるとからっぽの箱をあみ子に投げ返し、手を振って別れたあと、あみ子はスキップして家まで帰る。そのスキップを以前兄から、「あみ子の(スキップ)は地団太じゃ」と言われたことがあったのだ。

この時味わったあみ子の束の間の幸福感と、UFOを目撃して自らの孤独を実感した探偵が、わたしには一枚のコインの裏表のような気がして、「あっ」と思ったのだろう。

佐世保の少女が気になる。「ひとを解剖したい」というのは、どういうことなのだろう?
先に記した『境界の現象学』の第1部は「変身」というタイトルで、「ファッションと産まれることの現象学」「見つめられることの現象学」「痛むこと、癒されること」「食べられること、食べること」という章によって構成されている。
まだ途中までしか読んでいないが、とても示唆的な本だ。

こんなことが書いてある。

対象が私を見つめていると感じるためには、その対象を運動感覚的に捉えていなければならない。その対象が死物・無機物であってもである。身体のない精神にはこの運動的な対象の把握ができない。




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