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2014-07

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これぞファンタジー! - 2014.07.31 Thu

千葉伸夫氏の『小津安二郎と20世紀』は、豊富な資料をもとに小津の足跡を丁寧にたどった大変な労作だ。
小津が戦時中、映画撮影のために滞在していたシンガポールのホテルで、米軍から接収した『嵐が丘』『レベッカ』『市民ケーン」等のアメリカ映画を見て、中でもディズニーの『ファンタジア』には圧倒されたのか、これを見ながら「こいつはいけない。相手が悪い。大変な相手とけんかをしたものだ」と語ったのは、有名な逸話である。

遅ればせながらというのもおかしな言い方だが。昨日、『姉妹と水兵』を見て、わたしも同様の感想を持った。
1944年に制作されたミュージカル。将兵慰問映画として作られたものらしいのだが、まあ、これが底抜けに楽しいのだ。戦時中にこんなノー天気でいいのか、というような。

ストーリーはまことに単純。タイトル通り、姉妹がいて水兵がいる。姉妹は舞台で歌って踊る芸人。ふたりの楽屋に毎日、妹宛に蘭の花が届く。しかし、差出人は「誰かより」とあるだけで、誰だか分からない。ふたりは舞台の上から、いったい客席のどこに「誰か」がいるのかと探したりする。
彼女達は舞台がはねると、毎夜のように兵隊たちを我が家に招いて、ねぎらいのパーティを開いている。もうこのあたりで観客にはその「誰か」が誰であるかは分かっているが姉妹は知らない。
パーティの途中、妹が水兵と話している中で、家の窓から見える倉庫を指して、あそこが使えたらいいんだけど …てなことを言う。彼女たちの家に兵隊たちが入りきれないので、もっと広いスペースがほしいのだ。
すると翌日、不動産屋が来て、先の倉庫の鍵を持って来る。いつの間にか、彼女達のものになっているのだ。
倉庫に入ってみると、中はほこりだらけで蜘蛛の巣もはっている。が、よく見ると、あちこちに舞台道具が置かれているのだ。なんて都合がいい。さらに奥に入っていくと、懐かしいおじさんが!
彼はその昔、芸達者でならした男で、姉妹も幼時に会ったことがあるひと。その後、愛していた女房が子供を連れて出奔し、それがショックで舞台から遠ざかり、いまはここに隠れ住んでいるのだ。
それからなんやかやあって、最後は当然のようにハッピーエンド。

なんやかやを知りたいひとは、ご自分でご覧になっていただくとして。
劇場、そして、彼女達のプライベート劇場に出演する歌手、ダンサー、芸人、楽団が多分当時のトップレベルのひとたちで、この映画は彼等の至芸を堪能させる映画なのだ。これが凄い!
2時間あまり、まったく退屈することがない。こんな映画は滅多にあるものではない。
わたしはもともとミュージカル映画が好きではなく、有名な『雨に唄えば』やF・アステアの映画は確かに面白いのだが、時々だれてしまうところがある。しかし、この映画はそれがない。

芸人たちの至芸が凄いのは、これまた実際に見ていただくしかないが、その芸人たちの競演の楽しさを下支え(?)しているストーリーがうまく出来てる。
先にも記したように、ストーリーそのものはよくある手のものだが、ディテールが実にお洒落といいますか。

ファーストシーンは。劇場の楽屋。籠の中に一歳になるかならぬかの赤ん坊がいて、その脇で3、4歳と思われる女の子が本を読んでいる。そこへ舞台衣装をつけた、ふたりの母親と思われる女性が顔を出し、妹の面倒をちゃんと見ててねと言って、出て行く。
次もまた楽屋。今度は妹は2歳くらいで姉は4,5歳。妹はもう歩けるようになっていて、姉の目を盗んで廊下に出て行き、他の楽屋に入って行く。彼女はお気に入りのお人形を持っているのだが、なんと入って行った楽屋にその人形のモデルになっているおじさんがいて、それが先に記した倉庫に隠れ住んでいるおじさん。
おじさんが舞台で至芸を披露し、下手袖に引っ込もうとしたとき、上手袖から妹がよちよち現われ、それを見たおじさん、「近頃は誰でも舞台に出たがって困る」なんて言うと、フェードアウト。
フェードインすると、劇場の表の看板に大人になった姉妹が描かれていて、それから、彼女達の歌い踊るステージが始まる、と。どうでしょう、このストーリーの進め方のスピード、小気味よさ!

登場人物の9割は兵隊や将校で、その事実が戦時であることを物語っているが、それ以外には戦争のセの字も聞かれない徹底振り。やはり日本はとんでもない国とけんかをしてしまったのだと思わずにいられない。

これは、芸人達の至芸に酔わせ、姉妹たちの可愛さにため息をつかせ、そして、終始、微笑みを絶えさせない、見る者を幸福感でいっぱいにしてくれる、本物のエンターティンメントだ。

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底知れぬ沼のような … - 2014.07.28 Mon

久しぶりに乗り物に乗る。四条河原町に出て、ジュンク堂で芝山幹郎の『今日も元気だ映画を見よう』(角川ssc新書)と、河野哲也の『境界の現象学』(筑摩選書)を買い、それから、花見小路を抜けたところにある場外馬券場へ。
惨敗。クーッ!

『今日も~』は、著者がいろんな媒体の求めに応じて書いた短い映画評を365本集めたもの。
別に著者の好きな映画ベスト365が収められているわけではない。だから、肩の力を抜いて気楽に読める。
1本を600字程度で紹介している。高級そうな知識をひけらかすわけでもなく、かといって<分かりやすさ>に堕することもなく、対象映画のキモを的確に指摘し、なおかつ自らの好みもハッきりと書き添える。
著者の名人芸とも言うべき腕の冴えには恐れ入ってしまう。

365本のうち、わたしは何本見てるか数えてみたら150本ほどだった。
採りあげている映画の6割くらいはこの10年ほどの間に公開されたアメリカ映画だが、この半分以上をわたしは見ていない。著者の好みが反映しているのかどうかは定かではないが、ウディ・アレンとタランティーノの映画が多く採りあげられていて、このふたり、あまりわたしは好みではないので、その大半を見ていない。また、ホラーとか事件もの(?)もあまり得手ではないので、それらの大半も見ていない。

この本で紹介されていた『ペーパーボーイ 真夏の引力』を見る。
20歳の若者が主人公。彼は将来有望な水泳選手だったが、問題を起こして大学を退学、いまは、父親が発行している地方紙の配達をしている。タイトルはそこからきている。
彼には兄がいて、父の会社よりもずっと大きい新聞社の記者といして働いている。
設定されている時代は1969年。兄は公民権問題や冤罪を訴える人々を擁護するような記事を得意としている。
兄のところにある女性から、自分の婚約者が冤罪で死刑になるかもしれない、助けてほしいという内容の手紙が送られてくる。兄はその要請に応えて取材をすべく、事件の舞台となった自分の生まれ故郷に帰ってくる。

と、こう書くとマジメな社会派ドラマみたいだが、あにはからんや。
物語のメインストリートは、その町で起きた保安官殺害事件の真実やいかに、というものだが、しかし、この映画の面白さはそんな謎解きにあるのではない。
登場人物がひとり残らず曲者揃いで、そんな彼・彼女等の裏の顔(?)が明らかにされるにつれ、物語が右に左に蛇行する、そのことがもたらす不安=サスペンスこそがこの映画の真骨頂なのだ。

終盤になって二度、主人公と彼の兄は、冤罪を訴える男の住まいへと赴くのだが、そこにたどり着くためには沼を通らなければならない。
沼は当然のように暗く淀んでいて、底がないかに見える。
この物語に登場する、病的に淫乱な女性、ゲイ、あるいは、設定されている時代ではあからさまな差別の対象になっていた黒人、そして日本風に言えば被差別部落に住む人々、等々は、一般市民の目にはおそらく、底なし沼のような不気味な存在と映っていたのだろう。このことがもたらす数々の不幸と、そして恐怖 …‥

主人公は後に、この話を小説にし評判をとり、その裏話を知りたいというテレビのインタヴューに応じた、主人公の家で働いていた黒人女性の話に沿って物語は進行するのだが、この黒人女性を演じる俳優さんがとてもいい。ウィキで調べようとしたが情報ナシ。








戦争と平和 - 2014.07.27 Sun

「若い読者のための世界史」E・H・ゴンブリッチ著(中公文庫)を読んでいる。
なかなか進まない。まだ紀元前。タイトルの通り、子供にお話を聞かせるように書かれているのだが、いい大人であるわたしは、ほとんど無知で、その事実を突きつけられる気恥ずかしさと戦いながら読まなければいけない。だからなかなか前に進まないのだ。
分かったことは、人類はずっと戦争をしてきたということで、結局、歴史とは戦争の歴史である、ということだ。
これまで戦争で流された血の量は、太平洋の海水以上ではないのか、と考えると絶望的な気分になる。

久しぶりに「朝まで生テレビ」を見る。集団的自衛権をめぐってのもの。
ずっと気になっているのは、野党側というか、安部政権を批判する側の論理の脆弱さだ。
ホルムズ海峡を封鎖されたら日本に石油が来なくなる。そうなったら日本経済は立ち行かなくなる。いいのか。機雷除去という危険な仕事を米軍にまかせて、日本はなにもしなくていいのか。という政府側の論理に、例えば、心理学者の香山リカは、最近自衛隊員の自殺者が増えていて、一般国民の自殺率の比ではない。それは安部政権が云々という論理では抗しえないことは中学生でも分かるのではないか。
先刻の閣議決定されたものには相当の瑕疵があることは分かった。が、ただただ「憲法を守れ」だけではもう国民の支持は得られまい。明解に意志表明をしている安部に対抗するには、この国をどうしたいのかを明解に示す必要があるはずなのに、野党及び護憲派(?)の言葉からはそれが見えない。

同じ日、朝の番組「よ~いドン」の「隣の人間国宝さん」に凄いひとが登場していた。
玄関に「木彫」の看板があり、中に入ると、わたしと同年代のおじさんがいた。金曜のこのコーナーの担当である八光が、ところ狭しと置かれてある木彫の作品を見て、これは売り物なのかと問うと、売り物じゃないと言い、自分は年金で生活してるから金はいらないのだ、と言う。ここからがハイライト。
年金は月に3万5千円。家賃はいらないからこれで十分。自分のいまの贅沢は週に一度、120円で炭酸系の缶ジュースを飲むことで、その週のいちばん気分のいい時に飲むと決めているのだという。
また、週に一度、銭湯に行くのも楽しみのひとつで、その銭湯も近所のではなく、山ひとつ越えたところにある銭湯で、汗だくになった体を湯船に浮かべてるときは最高だというのだ。
むろん、このひとのこういう暮らしぶりだって、石油が止まれば、経済がガタガタになり、ひいては、月3万5千円の年金も危うくなる可能性だってなくはない。でも、3万5千円が2万円になったって、こういうひとはなんとかしてしまうのではないか。
あるいは。作品はそれこそ売るほどあるのに売る気を見せないという姿勢にも、ただただ敬服するのみだ。
表現というのは要するに自己顕示欲の具体化だが、このひとは作るだけで誰かに、買ってもらおう、褒めてもらおうという気がないのだ。戦争とは要するに、自己顕示欲の拡張行為でしょ。

このひと、徹底した平和主義者なのだ。すべての人間がこういうひとなら、戦争は起きないだろう。もちろん、原発もいらない。




意気地なし! - 2014.07.24 Thu

「moon guitar」を書き終え、傍から見れば暇でしょという状態かもしれないが、そうはいかない。
ハードディスクに入ってる未視聴の映画を見て、なおかつ削除していかないと、新しく録画出来ないからせっせと見なければいけないのだ。
この3日で10本ほど見る。その中では、成瀬巳喜男の「夜ごとの夢」とアメリカ映画「世界にひとつのプレイブック」に惹かれた。

前者はサイレントだから当たり前だが、音がないのでとても静かだ。
TVはとにかくうるさい。お笑い系がうるさいのは半ばしょうがないとしても、スポーツ中継のうるささはなんとかならんのか。
多分、テレビ朝日系列だと思うけれど、アナウンサーがなにかと言えば、「この時のピッチャー心理は?」「こういう場面でのバッター心理は?」等々、心理心理と実にうるさいのだ。聞かれれば答えなければならない解説者は、なんのかのと言うわけだけれど、当然のことながら通り一遍のことしか語らず、語れず、それになるほどなるほどと頷くアナウンサー。
ええ加減にせえよ。

サイレント映画にはときどき台詞の字幕が入るのだが、あまり入り組んだストーリーは字幕ではカバーできないので、まことにお話は単純だ。
幼い子供を抱えて、生活のために飲み屋で働いている女性が主人公。
そこに別れたはずの亭主が、子供に会いたいと現れる。この男、誠実ではあるのだが、いわゆる生活力がなく、その一方で、女房にはそんなところで働いてもらいたくないと思ってる。子供が病気になる。入院させるためのお金がない。男は女房にはお金を借りに友人のところへ行くと言って、実は学校(?)にドロボーに入る。それが発覚。警備員にピストルで腕を撃たれる。通報に応えて警官がやってくる。うまく逃げおおせて家に帰るが、女房にその傷はどうしたと問い詰められ、こな盗んだお金を子供が喜ぶとでも思うのかとなじられる。
翌日。家に警官がやってくる。男の逮捕にきたのかと思いきや、亭主が自殺したという知らせ。亭主の手には紙切れが握られていて、それを開くと、「あとを頼む」みたいなことが書いてある。女房がその紙を引き裂くカットがあって、次に字幕、「意気地なし!」

映画の導入部が素晴らしい。学生風の男ふたりが橋に立っていて、そこにヒロインが現れる。ふたりは女の店の常連。女がタバコはないかというと、ふたりは競い合うようにタバコを差し出す。が、先に出した方のタバコの箱にはタバコが入っておらず、遅れた方の男が勝ち誇ったようにタバコを差し出す。女は受け取って、口に咥え、男が火をつけようとマッチを取り出すと、箱の中にはマッチがない。先にタバコで失敗した男が勝ち誇ったように、マッチを差し出す。
単純なギャグだがこのやりとりのリズムが心地よく、笑わせる。それに続いて、彼女が住んでいるアパート界隈のカット。
風に吹かれて洗濯物が揺れている。彼女の生活環境が、その色っぽい登場とは裏腹に、なかなか厳しいものであることが、このワンカットで明らかにされるのだ。

後者はその投げやりなタイトルから、5分見て詰まらなかったらすぐに削除をと身構えていたのだが …‥
前者とはまったく真逆の、実にけたたましい映画。
主人公は、いまは別の病名になっているらしいが、昔は躁うつ病といわれる病で8ヶ月入院。物語は、彼が退院したところから始まる。
ストーリーの詳細は、映画紹介のウェブで確認していただくことにして。

登場人物の誰もが実によく喋る。言葉の過剰な氾濫が見るものを落ち着かせず、また、誰もが精神の不安を抱えていて、いつかどこかでとんでもない事態になるはずと、見るものもまた物語の行く末に常に不安を抱えながら見ることになる。
が。最後は、ありがちと言えばありがちの、だからこそ感動もするハッピーエンド。

その巧みなストーリーテリングに舌を巻く。そして、ヒロインを演じるジェニファー・ローレンスの素晴らしさ。
彼女も精神的な不安を抱えていて、病院にも入り、いまも薬を飲んでいる。そんなふたりが徐々に互いの距離を縮めていく過程がこの映画のメインストーリーなのだが、その心の揺れ動きをジェニファーが見事に演じている。
なんて、前から彼女を知っているかのように書いているが、最近の、とりわけ海の向こうの映画事情にはとんと疎く、このひと誰よと思ってネットで調べたら、彼女はこの映画でアカデミー賞の主演女優賞を貰ってた。

彼女は、自らの寂しさをどう処理していいのか分からず、勤めていた会社の社員全員と性的な関係を持ってしまった、というすさまじい女性だが、それがゆえに、過剰にセンシティブで、相手のなにげない(と、語った当人は思っている)ひとことに深く傷ついてしまう。その瞬間を示すこの女優さんの鋭敏な演技は、見ているこちらをも動揺させてしまう、あ、取り返しのつかないことをしてしまった、と。

物語の終わり近く。男の父はアメフト狂いで、地元チームの勝利に大金を賭ける。
父はノミ屋だという設定になっているのだが、どうもその実態がよく分からないのでもどかしい。ノミ屋という訳が間違っているのではないかと思うが、それはともかく。父はバクチ仲間と、アメフトで地元チームが大差で勝ち、更に、同日に行われるダンス大会に出場する息子とジェニファーペアが10点満点の5点以上取ったら、それまでの負けを一挙に取り戻す賭けをする。
ジェニファーは好きでダンスをやっていて、一緒に大会にと男を誘ったのだ。しかし、男はまったくのド素人で、5点なんてとても無理だからと、父にそんな賭けはやめろといい、父がそれを拒否すると、じゃ、自分は大会には出ないと言う。
父は、息子がこの高いハードルを乗り越えれば、精神の危機も乗り越えられると思っているのだ。
大会出場を拒む男にジェニファーが言う。「この根性なし!」と。

静かな映画とけたたましい映画。この対極にある映画のヒロインが奇しくも、相手の男に対して同じことばを投げつける、今回はそういうお話でした。




果報は寝て待て。 - 2014.07.22 Tue

ふー。やっと「moon guitar」の幕が下りる。ただいま7月22日12時12分。
ウレピー。満足感と達成感に満たされている。

土橋くんから、今回の依頼があったのは、去年の今頃ではなかったか。記憶は定かではないが、確か11月頃に、助成金申請書類用に、簡単な作品意図とストーリーを書いて渡し、今年の5月にプロットを渡し、正式に書き始めたのが6月の初め。
途中、風邪で体調を崩すアクシデントがあったので、正味一ヶ月で書き上げたことになる。
本番三ヶ月前に! 偉いぞ、竹内! 

いつものことだが、書き上げた直後には、大変な傑作を書き上げてしまったと、ほとんど有頂天状態。
ということは大目に見ていただきたいのだが、作中でわたしがもっとも気に入っているやりとりは、以下のもの。

  タクミ  あんた、最低だな。
  リュウ  (笑って)最低? ならばコツコツ最高目指すね。目標出来て嬉しいのことよ。
  タクミ  100年かかるわ。
  リュウ  中国三千年の歴史。百年短い、あっという間よ。
  タクミ  あんたいま幾つだ。
  リュウ  (笑って)幾つになっても心は少年よ。

いかがなもんでしょ?
前に、この作品は、健さんVS吉本と書いたが、それに、小津が加わった。「麦秋」の一部が引用されている。健さんVS吉本VS小津?!
なんのこっちゃ。

ああ、これで楽になれる。演出しなくていいというのは、本当に楽チンだ。土橋演出で戯曲がどう読み解かれ、変貌するのか、とても楽しみ。
なあんて、のんきな父さん然としてりゃいいんだから。

あとは巻末に、参考・引用資料の一覧を付せば、すべて終了。
久しぶりに散歩に出かけよう。

うん? 外は暑いかな?

あともう少し - 2014.07.18 Fri

あれはアクセス件数というのか。このブログのそれをいま確認したら、033230になっていた。
あともう少しで「3並び」になる。パチンコならば、大当たりだ、多分。パチンコはもう30年以上もやってないから、いまはどうなってるのか知らないが。

一日に1万10万のアクセスがあるブログもあるらしいから、それらに比べたらまことにささやかな数字だが、そういう人気ブログの多くは、多分、食い物や犬猫の可愛い写真入りだろう。ご承知のように、わたしのブログときたら、グダグダと文字だけが並んだ愛想もクソもないものだから、いつもお付き合いを頂いている皆様方には、感謝にたえない。

そういうわけで。「3並び」記念に、日頃ご愛読いただいている方々に、わたしの戯曲集のプレゼントはどうかと考えたのだが、その途端に、嫌な記憶が甦る。
もう何十年も前の話だが。あれはなにがあってそうなったのか、まったく記憶にないのだがとにかく、わたしの「竹内銃一郎戯曲集①~④」全巻を差し上げます、希望される方は応募して下さい。と、公に示し、それに、「但し、1名様に限らせていただくので、応募者多数の場合は抽選に致します」、と付け加えた。
だけんどもしかし。二桁くらいはあるだろうと思っていた応募が、な、なんと、ひとり! なにが抽選じゃいッ! とわたしはそのとき、ひどく傷ついたのだ。
なので。広く希望者を募りませんが、「竹内、読みた~い」という方は、その旨そっと、コメントかなにかでお知らせ下さい。

「moon guitar」も、あと残り少しのところまで来ている。いま現在45枚。50枚前後で終わらせたいと思って書いてきたので、あと5枚+α。野球でいえば、最終回のマウンドに押さえ投手がいよいよ登場、といったところ。サッカーに例えれば、幾本かのパスをつなぎ、時にはドリブルも織り交ぜながらゴールエリアまで詰めてきて、あとはシュートを叩き込むのみ、である。

岩松(了)さんは、書いてるときは読み返さない、修正もしないと公言されているが、わたしは繰り返し読み直し、修正も繰り返す。その修正の大半は、語尾だとか、「沢山」を「いっぱい」にとか、言葉の位置を変えるとか、実にみみっちい、多くのひとは、その修正に気づかないような種類のものだ。

改めて言うまでもないことだが、台詞=言葉には、意味だけでなく、音やリズムも含んでいる。台詞は俳優がそれを発語することで観客に伝えられる。多分、多くのひとは、台詞に同意したり疑念を抱いたり、あるいは、感動したり泣いたり笑ったりするのは、言葉の意味への反応だと思っているのではないか。しかし本当は(?)、まず台詞の音の響きやリズムからなにかを感じ取り、意味はそれに遅れてやって来ているはずなのだ。
わたしの修正のほとんどは、台詞のリズムの調整に絞られている。

どういうリズムを良しとするかは、体調に左右されているようで、もちろん、体調は日によって違うから、昨日はOKとした台詞が、今日はNGということもよくある。昨日と今日、どっちを採るか、判断に迷うこともしばしばだ。

C・イーストウッドは、基本的にワン・テイクしか撮らないらしい。多分、彼の俳優としての経験がそういう方式を選ばせたのだろう。テストを繰り返すたびに俳優(の演技)は出がらしになっていく、そう思っているのだ。
一方、小津安二郎は、10回20回とテストを繰り返すことで知られている。多分、小津は、出がらし状態の向こうに、俳優個人の真実、あるいは、それさえも超えた人間=世界の真実が見えるはずだ、と思っていたのだ。

最近、「自分らしさ」とか「ありのままで」などという言葉が批判の的になっているようだ。Wカップに出場した日本チーム(の選手達)が、「自分たちのサッカーが出来れば」と繰り返した挙句に惨敗してしまったことがキッカケだ。

小津が執拗にテストを繰り返したのは、わたしが前述したような「(映画の)心地よいリズムの探求」のためであったと思われるが、もうひとつ、「自分らしさ」などという迷妄から、俳優を解放するためでもあったのではないか。
C・イーストウッドも方法は違うが、求めているのは同じことである。本番一発で決めるということは、少しのミスも許されないということだ。そんな状況下で、「ありのまま」など通用するはずもない。舐めるな、という話である。

このところは、3枚書いて2枚消し、という進行具合だ。あと5枚。出来ることなら今週中に終わらせて、早く楽になりたいのだが。週末の競馬が …‥







美しさ=人知を尽くし、超えたもの - 2014.07.14 Mon

ワールドC、ドイツ優勝で幕を閉じる。
決勝戦は3時に起きて、初めから終わりまで全部見る。まことに熱のこもった、互いに死力を尽くした文字通りの激闘。
脚が1センチ伸びるか伸びないかで、相手のパスを止められるかどうかが決まり、それが時に勝ち負けを決める。
これはサッカーに限ったことではないが、トップレベルのスポーツの試合というのは実に厳しく、人間の能力の限界を超えているのではないかと思わせるその厳しさが、美しさと感動をもたらすのだ。

週末、卒業生の吉川さんから送られてきた戯曲を読み、感想・アドバイスを書いて送る。
それは卒業戯曲として書かれたもので、かなり刺激的な作品なので、書き直してどこかの戯曲賞に応募してはどうかという、わたしの進言もあって書かれたもの。
わたしはこれまで、岸田戯曲賞をはじめ、幾つかの戯曲賞の選考委員をつとめたが、吉川さんのそれは、それらの受賞作となんら遜色のない出来栄えで、というより、それらとは明らかに異質の、わたしもあまりお目にかかったことのない作品だ。それだけに、応募をしても審査員の賛意を得られるかどうか。

前に、助成金の審査について触れたが(書かない方がよかったと反省している)、審査員、選考委員の中には、どういうわけか、不適と思われるひとが必ず混じっている。
以前にこんなひとがいた。ある戯曲賞の選考の場で、受賞作に決まった作品を、そのさる御仁は、「わたしは渋谷でチャラチャラしてるような若者は嫌いなので、そういう人物が登場するこんな作品は認めない」とおっしゃったのだ。そんな個人の趣味を評価基準にすること自体が驚きだが、そういうアリエナイ見解を堂々と公表する神経に呆れはてた。
最終選考は、委員たちの議論によって受賞作が決められるのだが、一次審査は担当委員が応募作を手分けして読み、「個人的判断」のみで決められるので、運悪くこんな恐ろしいひとにあたってしまったら、吉川さんの作品は間違いなく闇に葬りさられるだろう。理不尽なことこの上ない。 吉川さんの幸運を祈ろう。

助成金審査を辞退したのは、そういう責任の重さを引き受けることがしんどくなったからでもあるのだが、それとは別に、どこかに出かけることが面倒になった、という事情もある。
そもそも、子供の頃からわたしは出不精だったが、ここにきてその度が増している。よく考えたら、京都に引っ越して5ヶ月近くになるが、この間、乗り物に乗ったのは10回にも満たない。

そんなわけで。毎日のようにお芝居の招待状をいただくのだが、ほとんど行かない。中には知り合いの関わっているものもあって、ずいぶん長いこと会ってないから、久しぶりに …‥と思ったりもするのだが、先の出不精に加えて、正直に書いてしまうが、どうせ面白くないんだよな、と思う気持ちがあり、結局不義理をしてしまう。

申し訳ないのだが、家で本を読んだり映画を見てる方が、圧倒的に満たされる。

このブログでも触れた「狩人の夜」は別格にしても、最近見た中では、「日本ゼロ地帯 夜を狙え」(監督 石井輝男)、「緋牡丹博徒 鉄火場列伝」(監督 山下耕作)の面白さに舌を巻く。
ともに60年代後半に作られた、いわゆるプログラムピクチャーで、ストーリー自体はよくある定番的なものだが、そんなよくある話を面白く見せるために、あの手この手を使って(人知を尽くして?)見る者をあきさせない。

石井輝男は、俗悪監督のレッテルを貼られ、一時期一世を風靡したが(おそらくそういう批判に居直ったのだろう、ずばり「ハレンチ」というタイトルの作品もある)、もともとは、清水宏、成瀬巳喜男といった名匠の助監督をつとめたひとだ。
清水は、子供の目をもって作品つくりをした好奇心溢れる監督で、成瀬は、生と死を等価のものとして世界を見る監督。石井には、両監督の<子供の目+非情の目>が根っこにあり、どれだけハレンチで俗悪な世界を描こうと、どこか初々しさがあり、そしてクールなのだ。代表作は、「網走番外地」「責め地獄」「恐怖奇形人間」等々。

藤純子様主演の「緋牡丹博徒」シリーズは全部見ている、と思っていた。「鉄火場列伝」の記憶がないのは、面白くなかったからだろうと思って見ていたら、どれだけ経っても「思い当たる節」がなく、半ばを過ぎて、見ていなかったことが判明。

山下耕作は、日本映画史に残る傑作、「関の弥太っぺ」「総長賭博」の監督だが、この作品もそれらに匹敵する傑作。
純子様のこぼれるような美しさがあますところなく映し出され、要々に、鶴田浩二、丹波哲郎、若山富三郎等々が、まさに適役という役柄で登場して活躍。純子様が、賭場で手本引き(高等花札勝負の一種)で胴をとる長いシーンの途中で、突如、おなじみのこの映画の主題歌(インストゥルメンタルのみ)が流れたときには、鳥肌が立ってしまった! 
しかし、この映画で特筆すべきは、例によって悪役を演じる天津敏! その存在感は圧倒的だ。だって、ワルモンは実質彼ひとりで、一方、イイモンは純子様以下、先に挙げた面々。フツーなら勝負にならないところなのに、これが! 彼等を相手に、(実質)ひとりで互角の勝負をしてしまうのだ。

マジメな<社会派映画>が語る社会正義は、映画館を出た途端に忘れてしまうが、優れた大衆娯楽映画は、<あるべきひとの生き方>を教えてくれる。この二本もそんな映画だ。
改めて、20代に見たこの種の映画に、いまも大きな影響を受けていることを実感した。

残念ながら、この種の映画がベスト10などに選ばれることは、ほとんど(絶対?)ない。
コレ、間違ッテルノコト。





テクニック+アイデア=スピード - 2014.07.11 Fri

ワールドカップも決勝戦を残すのみとなった。
ひと試合まるまる全部見たのは、日本VSギリシャのみ。あとは、ダイジェストとそれから、先週先々週は夜11時頃に寝て朝5時6時に起きるという、聖人君子みたいな生活(?)をしていた関係で、早朝TV放映されていた数試合の後半戦を見た。

アルゼンチンVSイランが印象に残っている。試合を決めたメッシの神業シュートには驚いたが、なによりイランの健闘が光った。イランはFIFAランキングでは日本より確か2つくらい上位で、はあ? と思っていたら、ランキングに偽りなし。そのカウンター攻撃の迫力に目を見張った。
前述したように、わたしが見た試合は限られたものだが、もっとも感動したのは、ドイツVSアルジェリア戦。
延長戦後半のアディショナルタイムでドイツに2点目を叩き込まれ、残された時間もあと2,3分。アルジェリアの選手達は明らかに疲労困憊と見え、精神的にもボキボキに折れてしまったはずと思いきや、1点を入れてなお反撃の姿勢を見せて、その不屈の闘志に感動したのだ。
さすがに、フランス相手に長く反植民地運動を戦い抜いた国! 考えてみれば、イランの選手達も生まれて以来、ずっと戦時下で育っているのだ。
ひるがえって、日本・日本人はといえば。戦時中は「鬼畜米英」を合言葉に戦っていたのに、敗戦となった途端にあれはなにかの間違いだったと思ったのか思わなかったのか、「ようこそアメリカ」「ギブ・ミー・チョコレート」「民主主義万歳」という、アッと驚く手のひら返し。
サッカーは、恐ろしいほど国民性を反映するスポーツだ。

それはともかく。
サッカーは演劇ととても似ている。戯曲を書いているときも、稽古の現場でも、ひとの戯曲や舞台を読み・見ていても、そのことを強く実感する。
ともに必要なのは、テクニックとアイデアで、どちらが欠けていても用をなさない。
サッカー(選手)ならば、たとえ高度なヒールパスを駆使出来ても、それをここで、というアイデアがなければそんなものは宝の持ち腐れで、また、幾らアッと驚くようなアイデアを持っていても、それを具体化出来る技術がなければ、これまた絵に描いた餅でしかない。
読んでカッタルイと思う戯曲は、結局このふたつのどちらか、あるいは両方を欠いているのだ。

あれはどこの国だったか。自陣から4、5本のパスで一気にシュートまで持っていったチームがあって、その信じられぬスピード感にわたしは思わず、「おお!」を声をあげてしまったが。
カッタルイ戯曲、そして舞台は、日本のサッカーのように、一見華麗にパスをつないでいるようで、しかし、全然前に進まず、なかなかシュートに持ち込めず、もたもたしてる間にボールを敵に奪われたり、シュートを打っても枠内にいかない。

「Moon guitar」、ただいま6割。サッカーでいえば、センターラインを越えて、いよいよ敵陣に攻め入らんか、というところ。
用意していたプロットの、基本的なストーリーの流れに沿って書いてはいるが、細部は大きく変わって、書いてるわたし自身が驚いている。
ま、これはいつものことだし、そういう心変わりというのか、新しい発見(=アイデアが生まれる)があるから、こんな孤独で辛い作業にも耐えられるのだ。

大学の戯曲の講義ではいつも、自分の知らないことを書けと言っていた。
もちろん、知らないことは書けないから扱う対象を調べなければいけない。そういう面倒な作業を繰り返す過程で知らない世界と出会い、そして、書き上げた後、書く前と書いたあとでは、以前の自分とは違ったように、成長したように感じられる、そういうものを書いてほしいと言っていた。

書いているといつも、自分はほんとになにも知らないなと、われながら呆れはてる。
今回もそうだ。タイトルになってる月琴なんて、その存在さえ知らなかったし、中国・中国人のことも、闇社会のことも、重要な小道具になっているけん玉のことだって、ほとんどなにも知らなかったのだ。

かの健さんはTVのインタヴューで、これは自分が勝手に思ってるだけかも知れませんが、と前置きをして、自分は映画の中でずっと「いい人間」を演じてきた。そのお陰で、昔の自分より少しまともな人間になったような気がする、と語っていた。
いま、それを思い出した。

むかし自分が書いたものを読み返すと(ほとんどしないが)、とても恥ずかしい。語られていることの青臭さはしょうがないとして、やっぱりテクニックが稚拙なのだ。いや、テクニックと呼べないものしか持ち合わせていなかった。それが分かるので、恥ずかしいのだ。
それが分かる、というのは多少なりとも進歩しているということだろう。このことが少なからず、いま書いている支えになっている。

昔は、テクニックのないところは、勢いで乗り越えていた。勢い=スピードと、勘違いもしていた。
いまのわたしは、そういうことが出来なくなっている。勢いがなくなったのではなく、勢いだけで書いてしまう無謀さを、よしとしなくなったのだ。
時々、「昔の竹内の方が面白かった」「最近の竹内は竹内らしさがなくなった」という声を聞く。もちろん、また聞きなのだが。ひとはそれぞれだし、そういうひとの大半は、わたしの近作にほとんど触れずに言っているか、それこそ昔のわたしのように、勢い=スピードと勘違いしているのだろう。

昔から今に至るまでずっと、わたしの自作の中では、いちばん新しい作品が代表作だと思っている。
健さんの模倣をして言えば、50数本を書き、70~80の現場を踏む中で、前よりは多少はましな腕になってるような気がするからである。

ところで「Moon guitar」。S2あたりでは、なんだか吉本新喜劇が侵入してるみたいだけど、と思っていたら、書き進めていくうちに、映画「アメリカの友人」ではブルーノ・ガンツが演じている主人公が、どんどん健さんテイストになってきて ……
吉本VS高倉健!!

ま、このミスマッチ感が私的には、ナイス! と思ってはいるのですが。







どこまでも、夜も寝ない男が追いかけてくる、いつまでも - 2014.07.07 Mon

星がまたたく夜空をバックにタイトル。出演者やスタッフの名前が繰り出されているなか、子供たちの、こころ洗われるような歌声が聞こえる。タイトルが消えると、星空の中におばちゃん(演ずるは世界映画史にその名を残すあの、リリアン・ギッシュ!)が現われ(上半身のみ)、聖書の一部を語りだす。次に五人の子供たちが同じく星空の中に現われて、おばちゃんは彼等に話しているのだろう、子供たちはニコニコ笑って聞いている。「羊の皮をかぶった偽預言者には気をつけろ」というおばちゃんの言葉を最後にこのシーンは終わる。

これが活字では幾度も読んでいた映画「狩人の夜」の冒頭。背筋も凍るサスペンスだと思っていたから、こんなファンタジックな始まりに、はあ? と意表をつかれる。断るまでもなく、今回が初見。

映画は夜から昼へ。農場の庭で子供たちがかくれんぼをしている(空撮)。子供のひとりが隠れようとして納屋の戸を開けると、そこに女の死体が転がっていた!

よしよし、いよいよ本題に入ったかと思う間もなく、子供と死体のエピソードは惜しげもなく捨て去られ、カメラは田舎道を走る一台の車をロングでとらえる。男が運転していて、これがロバート・ミッチェム(以下R・M)。まるで鼻歌を歌うように、時々上目使いで上方を確認しながら、神はどうのこうのと独り言をしていて、最後に、神がお嫌いなのは、鼻につく香水の匂いであり、ひらひらのレースがついた服であり、長い髪でしょうと言って、このシーンも「なんのこっちゃ?!」という感じで終わり。この時、二度三度と車が走る前方の道を撮ったカットが挿入されるのだが、この一見なんでもなさそうなカットが、なぜか怖い。
次に、その男はなんと、ストリップ劇場の客席にいる。女性への悪態をついたあとにこれで、なおかつ、彼は苦虫をつぶしたような顔で舞台上のストリッパーを見ているから笑ってしまう。
が。膝の上でぐっと握り締められている彼の左手の拳の親指をのぞく4本の指それぞれにタトゥーが入っている、一文字づつ<H・A・T・E>と。そして、左手を上着のポケットに入れたかと思うと、中からブスッとナイフの切っ先が飛び出す。
おっ、と驚いた途端、場内に警官がふたり入って来て、男に名を確認し、ちょっと署までと連行していく。先の車は盗難したものだったらしい。彼はコソ泥だったの? 怖い殺人鬼じゃなかったの? なんじゃ、コレ?!
さあ、行くぞと思ったこちらの気持ちは、またもやポキリと折られてしまう。
ここでもまたこれ以上のことは語られることはなく、カメラはそんないかがわしくも危ない場所とひとから一転、のどかな農場の庭で遊ぶふたりの子供をとらえる。
小学校高学年と思われる兄と、まだ4,5歳と思われる妹。そこに、大柄な男が走り込んでくる。ふたりの父だ。そして荒い息を吐きながら兄に包みを差し出し、これを隠せ、あ、あそこがいい。隠し場所を誰にも言うな。神に誓え、このことを誰にも言わない、妹は必ず守る、と。ふたりが神妙な面持ちで頷くと、数人の警官が現れる。その中のリーダー格が拳銃を持ってるゾ、と仲間に注意を促す。父は拳銃を捨てる。警官たちは彼に駆け寄り、横倒しにし、子供たちの見ている前で、後ろ手に手錠をかける。父は銀行強盗をして(そのときに殺人も)、子供に渡した包みは大金だった。

冒頭のおばちゃんと子供たち。かくれんぼをしていて死体を発見した子供たち。ストリップ劇場で捕まった男。農場の兄妹と、子供の前で手錠をかけられた父。これら・彼等の間に、いったいどんな関連・関係があるのかなにも説明されることなく、それぞれはそれぞれとしてあっさり放り出されている。
この映画は100分に満たない長さだが、始まりから終わりまで、ツバを飲み込むのもためらうほどの緊張感と恐怖を強いられる。もちろんストーリーそのものも怖いのだが、なにより、それぞれのエピソードが惜しげもなく切って捨てられ放り出される(そう、まるで切り刻んだ死体を川に捨てるように)、そのことが怖さをよりいっそうなものにしているのだ。もちろん、これら遠くにあるモノたちが、物語の進行とともに、重なり、結ばれていって、それが更に恐怖を煽るのだが。
更になお。この恐怖を寸断するように、時々、天使の寝言のようなファンタジックなシーンが挿入される。

凄スギル!

ストーリーの詳細は記さない。
見終わってもう一度見直すと、ああ、あれはそういうことだったのかと合点のいくところが多々あるのだが、しかし、なんとなく見逃していた聞き逃していたところが今度は気になり、またもう一度見てしまう。
これは止められない止められない、いつもでも終わらない、夢のような映画なのだ。

監督はイギリスの名優チャールズ・ロートン。これが監督としてのデヴュー作だが、客は不入り、批評家からは無視、ということで、結果としてこれが生涯最後の監督作品となった。
まったくねえ。いまでは映画史に残る傑作と評価されている作品が、公開時にはこんな不当な扱いを受けてたわけです。大半の客なんてものは、巣の中で口を開けて親鳥が運んできてくれるエサを待ってる雛鳥みたいなものだから、しょうがないんだけど、問題は批評家を名乗る連中。この映画に光を当てたのは、ゴダール、トリュフォー等であって、いわゆる<映画批評家>ではないんですから。

その正体を明らかにしたR・Mは、子供たちを捕まえて金を奪いとろうとする。兄妹は、(死刑になった)父の形見の舟で川を下って逃げる。どこまで来たのか、幾日経ったのか。今夜は舟ではなく陸で寝ようと、ふたりは農家の納屋に潜り込む。聞き覚えのある歌声が聞こえたような気がして、兄は目覚める。外を見ると、月明かりに照らされて、向こう岸に馬に乗った男のシルエットが。もちろん、R・Mが追いかけてきたのだ。
怖いヨ~。

ここで呟く兄の台詞がいい。「あいつ、夜も寝ないのか ……」

わたしは茄子も嫌いです。 - 2014.07.04 Fri

このブログの原稿、アップする前に誤字脱字がないか一応の確認をするのだが、それでも誤字脱字は必ずといっていいほどあるので、情けなくなってしまう。漢字変換の間違いもあるが、多いのは助詞の間違い。一度書いた文章を修正したとき、一部消し忘れをしてしまっているようだ。

いま書き進めている戯曲に、中国人(日本人とのハーフ)の女性が登場する。最初は日本語堪能として、フツーの日本語を喋らせていたのだが、先に書いたような助詞の間違いに気づいて、その台詞を書き直そうとしたが、待てよ、これはこのままでいいのではないかと思い、間違った(?)日本語をさらに強化することにした。
一週間ほど前だったか、池袋で脱法ハーブを使用した男が車で歩道に突っ込み何人かの死傷者を出した、という事件があったが、そのときに亡くなった中国人女性の友達が、TVニュースの取材に答えていたときの「変な日本語」も耳に残っていた。

「彼女とてもいいひと。なぜ殺す? わたし許せないよ」
実際にこんなことを言っていたわけではないが、大体こんな感じだ。イントネーションも独特の癖があるが、やっぱり日本語の助詞の使い方は難しいのだろう。
耳に残るのは、もちろん「変わっている」、違和感があるからで、その違和感がインパクトを与える。
そんなインパクトある台詞は書いていても楽しいので、こっちもすっかり癖になってしまたのことよ。

今回の戯曲は、ヴェンダースの「アメリカの友人」をもとにしているのだが、改めて映画と舞台の違いを考えている。
「アメリカの友人」は100分くらいの作品だが、その100分のうち、登場人物たちが喋っている時間は、多分半分の50分に満たないのではないか。半分以上は、台詞がないのだ。
しかし、芝居ではそうはいかない。

以前にも紹介したが、亡くなられた太田省吾氏は、「演劇は<なす>ではなく<ある>を得意とする表現だ>」と説いた。
世の多くのひとは、演劇とは<なす>ものだと思っている。そして、ただ<なす>のではなく、<なす>を過剰に拡大して見せるものだと思ってる。だから、「芝居みたいな真似をするな」とは、大袈裟な真似をするなという意味であり、「芝居っぽい」とはうそ臭いという意味なのだ。
絵画のようだ、音楽みたいだという形容が褒め言葉になることとこれはまさに真逆である。
前回で触れた三谷版「桜の園」はまさにそんな<芝居=大袈裟・嘘>の典型で、俳優達がいたづらに舞台で右往左往していたのも、ナニカナサネバという強迫観念にかられたためであったように思う。
太田氏は、舞台上にひとが<ある>ことを劇の本分と考え、そんな「大袈裟なうそ臭いもの」の対極に演劇を置いたのだ。

太田氏は、<ある>を沈黙に重ねて何本かの作品を作ったが、当然のことながら、俳優達はただ黙って舞台上にいたわけではなく、なにごとかを<なして>いた。「水の駅」という作品では、舞台にいくつかの水飲み場があって、行き交うひとが、そこでなにごとかを<なして>いた。わたしは正直、その沈黙がいささか過剰なもののように思われた。結局、これも結果として、<ある>よりも<なす>の方が優位に立ってる芝居なのではないかとも思った。

舞台上で俳優が<なすべき>唯一のこと、それは話し、喋り、語ることであるように思われる。そして、それら発語行為は沈黙と対になっている、と考えなければならない。

人間はそこにそうあることがすでにどこか滑稽だが、とりわけ発語しているとき、言葉と格闘をしている状態の滑稽には哀しみをさえ覚える。これがチェーホフが自らの作品の多くを「喜劇」と規定した理由・根拠なのではないか、とわたしは考える。

映画「アメリカの友人」が言葉を発せず映像のみで語った50分以上を、なんとか言葉で埋めたい。荒唐無稽とも思われかねないストーリーとともに。
言うは易し、行うは難し ……

それにしても。先に書いた脱法ハーブ野郎の起こした事故現場は、池袋の三菱東京UFJ銀行前で、ここら辺は三日に一度くらいは通っていた。もしかしたら自分も事故に巻き込まれていたのかもしれないのだ。
改めて実感した。生死の境目は紙一重なのだと。



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