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2014-06

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吉本がいいのだ。 - 2014.06.30 Mon

四月から自宅で戯曲講座を開いている。と言っても、目下のところ神戸からやってくる西さんひとりだが。
隔週で一回3時間。チェーホフの「三人姉妹」をテキストにして数回講義をし、前回前々回は、去年だか一昨年だかに上演された三谷幸喜演出の「桜の園」のDVDを見て、原作とどこがどう違うのか感想を言ってもらって、わたしがそれに応える形で進めた。

三谷版「桜の園」については以前にも触れたことがあり、その時に、詳細については改めて論じたいとしていた。
しかし。改めて見てみると、論じるべきことがなにもないことに気づかされた。あまりにお粗末で、そのお粗末さをいちいち採りあげて論じたところで、少なくともわたしにとってはなにも意味がないことに気づいたのだ。
学芸会並と言ってよく、俳優達はいたづらに右往左往するだけで、それは彼等の技量の足りなさもあるのだが、結局、演出家からの明解な指示がないからそうなってしまったので、なぜ明解な指示がなかったのかと言えば、三谷氏が戯曲をよく読み解けなかったからだろう。そうとしか思えない。

最近は芝居といえば、吉本新喜劇しか見ていない。TV放映される土曜のお昼は競馬中継を見ているので、あとで録画しておいたものを見る。
まあまあ毎回似たようなものなのだが、5回に1回くらい、かなり上等な出来上がりのものがある。ホンがよく書けていて感心する。

意外に思われるかも知れないが、俳優たちがちゃんと芝居をする。そこがいい。ギャグと称される悪ふざけはふんだんにあるのだが、ここという時は、ちゃんと芝居をするのだ。
先の「桜の園」には、元吉本新喜劇の藤井隆がペーチャ役で出演しているのだが、これがまあひどいもので、なにがひどいかというと、例えば、自分の台詞がないときに、間がもたないからだろう、ドーデモイイことを後ろでごそごそやっていたり、相手の台詞にいちいち相槌をうったり、高校生や大学生等素人さんたちがやるようなことをやるのだ。
吉本の俳優たちは、若いひとからベテランまで、一切その手のことはしない。例えば、前でふたりがそれなりにシリアスなやりとりをしている時、後ろに控えている俳優たちは、ただただそのやり取りを見て聞いているだけ、無防備に突っ立ってるだけで、恐ろしいほどなにもしない。進行している芝居の邪魔をしない。こんなことは当たり前のことだが、彼等のように舞台で無防備にいるのはとても勇気がいるのだ。だからこそ、それがわたしにはとても潔く、清清しく感じられるのだ。
ドーシタ、藤井隆! どこでそんな愚劣な芝居を覚えた? 吉本の教えを忘れたか。

てなことで。吉本で「桜の園」をやったらどうなるか、戯れにキャスティングをしてみた。

ラネーフスカヤ:冨司純子
吉本は人材豊富なのだが、女性陣、とりわけ40台以上になるとちょっと手薄で、この役のように品があって、天然で、やっぱり美人というと、適うひとがいないのだ。そこで、冨司純子さんに客演をお願いした。
アーニャ:井上安世
ラネーフスカヤの娘。戯曲には17歳とある。明るく前向きだが、世間知らずの母親の保護者的立場でもある。
井上さんは可愛いし、なにより声がいい。でも、吉本の芝居ではこういうひとの出番がなく可哀そう。頑張ってもらおう。
ワーリャ:高橋靖子
ラネーフスカヤの養女。ラネーフスカヤがいない間、家の切り盛りをしているしっかり者。周囲はロパーヒンとの結婚をすすめ、当人もその気はあるのだが、しかし、それを口に出せない。
高橋さんにぴったりではないか。このひと、きれいで、年齢の割りにうぶに見える。そこがいい。
ガーエフ:烏川耕一
ラネーフスカヤの兄。仕事もせずぶらぶらしている。いまだにおむつがとれないような無能の男。
烏川も適役。ガーエフはときどき、ほとんで意味なく、「黄色をポケットに」などと玉突きの用語を入れる。読む分には面白いのだがやると難しく、三谷版では全部カットしていた。烏川なら出来るはずだ。
ロパーヒン:辻本茂雄
子供の頃からラネーフスカヤに憧れ、いまはやり手の実業家になっていて、借金に苦しむラネーフスカヤにあれこれアドバイスをするのだが受け入れられず、結局、売りに出された桜の園を自分が競り落とす。その結果報告をする3幕の彼の長台詞。ぼけて突っ込んで、辻本なら完璧にやってのけるだろう。
ペーチャ:内場勝則
かってアーニャの家庭教師をしていた万年大学生。万年とはいえ、大学生役は内場にはしんどいと思われるかもしれないが、ロパーヒンとは立場は違えどあい通じるものがあるという設定になっているから、辻本との釣り合いを考えれば彼でいい。とにかく芝居が上手いし、どこか蔭があるところも役にあっている。
ピーシチク:川畑泰志
ちょっちゅうラネーフスカヤに金を借りにくる男。出番は少なく、座長には役不足と思われるかもしれないが、こういう役にそれなりの俳優をあてると芝居がしまるのだ。川畑の明るさがぴったり。
シャルロッタ:島田珠代
現在のアーニャの家庭教師。両親を亡くして、自分の年齢も知らず、手品を得意とし、きゅうりを丸齧りするという変な女。
このひともちゃんと芝居をする。壁に体当たりしたり、男の股間に触ったり、そんな奇矯な芝居を躊躇いもせず、文字通りの体当たりで演じる。でも、地の彼女はこういうことをするひととは真逆のひとではないか。暗さがほの見えて、適役。
エピホードフ:清水けんじ
ラネーフスカヤの家の執事。ドジを重ねるところから「二十二の不幸せ」とからかわれている。
清水も手堅い芝居をする。顔が地味めなのがこの役にぴったり。
ドゥニャーシャ:酒井藍
この家の女中。エピホードフに求愛されているところに、パリから垢抜けて戻ってきたヤーシャにひと目惚れ。しかし、結局ふられる。これは体重100キロの巨体が可愛いアイちゃん以外には考えられない。見た目とは裏腹に、図々しくて抜け目がなさそうなところ、ぴったり。
ヤーシャ:高井俊彦
若い従僕。ラネーフスカヤと一緒にパリから帰ってくる。キザな男。訪ねてきた母親とも会おうとしない。
高井、一見二枚目だが顔がデカイ。背も足りないので、劇中で「2頭身!」とからかわれる。滑舌が妙にいいのが面白い。
フィールス:池乃めだか
老僕、八十七歳。まるで幼い子供に接するように、ガーエフの世話を焼いている。
わたしの大好きなめだか師匠。最初はガーエフにと思ったが、病気になったあと、どうも台詞がままならないようなのでこの役に。屋敷からみんないなくなり、ひとり残されてしまった幕切れ、最後の長台詞を師匠が語るのを想像すると、うーん、切なくて涙が出ます。
あと、特別出演として、すっちーと吉田裕。幕間に、例のあれを、今年上半期のわたしの最大の<事件>だった、「ドリルすんのかいせんのかい」をご披露していただきましょう。

これが実現したら、画期的なチェーホフ劇になるはずですが。まあ、無理でしょうけど。









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120%! - 2014.06.27 Fri

今週に入ってようやく体調が戻ったようで、サクサクとはいかないまでも、A級M用の戯曲は順調に書き進められている。といっても、一日かけて3枚(40字×40行)程度だが。

それにしても、回復するまでに三週間余もかかってしまった。風邪は一週間足らずでに治り、フツーの生活をするのにはそれで十分なのだが、わたしの場合、ホンを書くには尋常ならざる集中力が必要で、そんな集中力を可能にするには、万全の、というか、120%の体調であることが要求されるのだ。さらに、書き始めから書き終わりまでの約一ヶ月間、そんな状態をキープし続けなければならないので、ほんとにしんどい。
若い頃、というか、ほんの数年前まで、わたしは遅筆で名を馳せていて、関係者諸兄には数々のご迷惑をおかけしたが、今にして思えば、それは書けなかったというより、前述のしんどさを引き受けるのが嫌で、多分、書くことから逃げ回っていた、その結果そうなっていたのだ。

サッカーWカップ、日本は一勝も出来ず終戦。
前にも書いたように、同じグループに入った他チームは、3回戦って1回勝てるかどうかの格上で、だから、3回に1回は勝てる可能性があるのだから、ベスト8も可能でしょって論理で、選手たちも意気込んだのだろうけれど、そう、選手はそれでいいのだけど、しつこいようだが、評論家なんて名乗るひとはそれじゃいけないわけでね。

格上のチームに勝つためには、自分たちのサッカーがどうこうではなく、普段以上の力、それこそ120%の力(=火事場の馬鹿力)を出さなければいけなかったはずで、そのためには個々の選手もチーム全体も、万全以上、120%の体調・状態で大会に臨む必要があったはずだが、スポーツ新聞等によれば、長友を除くほとんどが、体調不良もしくは不安を抱えていたようで、確かに、今年に入って、本田・香川・内田等は、まるで申し合わせたように自分の所属チームでさしたる活躍を見せていなかった。
これで勝てというのはそもそも無理な注文なんですよ。チーム状態を考えれば、ひとつ引き分けたというのは、むしろ大健闘だったのではないか。監督の采配に対する厳しい批判があちこちから聞こえていて、ま、監督と言う立場上、それは甘んじて受け入れなければしょうがないわけだが、ザックへの同情を禁じえない。

それにしても。
今朝のスポーツ新聞によれば、対コロンビア戦のTV視聴率が、関東では50%を超えたらしい。これは驚きだ。年末の紅白歌合戦以上ではないか?! (因みに、関西は35%。熱しやすく冷めやすい関西人!)
この国のサッカーファンは、おそらく数%くらいしかいないはずだから、大半のひとは、日本のサッカーチームではなく、<日本>を応援するために、朝も早よ起きだして、TVに釘付けになっていたのだろう。

この数字、この生真面目さ、この一体感を、どう考えたらいいのか?

生真面目な大半の人々には甚だ申し訳ないのですが、わたし、その時間はもちろん寝てました。だって、一日も早くホンを仕上げなければいけないし、そのためには、前述したように、体調管理に神経を使わなきゃいけないんで。

現在のホンの進捗状況は、全体の25%ほど。今週中に三分の一までたどり着ければ、出来上がりの目鼻もつくのだが、はたして ……?




リアルの矮小化 - 2014.06.17 Tue

どういうことになっているのか。
開催中のワールドカップについて、組み合わせが決まった頃には、日本の苦戦を予想していたはずの評論家諸氏が、大会が近づくにつれて過剰にヒートアップし(?)、決勝トーナメント進出は疑う余地なく、ベスト8進出も夢ではないみたいな強気発言を繰り返してる。それは、弱気な発言が封じる空気が、マスコミ・TV番組を覆っているせいで、あのアメリカとの戦争に突入したときもきっと同じようなことだったのだろう、みたいなことを日曜の夜に書いてアップし、翌日それを確認してみたら、なんとタイトルだけ残し、本文が消えているのだ。
言論統制? まさか。

同じ日曜、WOWOWで放映されたウォン・カーウェイの「天使の涙」も、録画したはずなのにされてないし。
楽しみにしていたのに、もう!

いまさら改めて言うまでもないことだが、わたし達の生活は電気・電子機器なくしては成り立たないことになっている。
それらに管理・統制されていると言っても過言ではないだろう。
だから、昨日今日ニュースになっている福岡の殺人事件も、あまりにナマナマし過ぎて、逆に、関係者の方々には申し訳ないのだが、まるでおとぎ話のようでにわかには信じられないのだ。
殺人という、まさに身体に関わるリアルな出来事なのに。

わたしたちのリアル=現実が多分、変容し、矮小化されているのだろう。
福岡の事件の容疑者夫婦の殺人の動機は、どうやらお金ほしさだったようだ。むろん、お金目当ての殺人は大昔から繰り返されたことで今に始まったことではないのだが、報道によれば、被害者及びその家族から彼等夫婦は繰り返しお金を無心し、その挙句の犯行だったようで、そのようにして得たお金は、高級車やギャンブル等に使っていたらしい。
高級車もギャンブルも、生活費というリアルとはおよそ縁遠いもので、そもそもお金そのものが、いわば<幻想>の代表格にあるものだ。

という文脈の中におけば、サッカーというまさに身体性そのものを感じさせるスポーツに、喪失した身体(性)を取り戻すべく、人々が熱狂するのも理解出来なくはない。
が、しかし。

冷静な言説を封じるようなマスコミ、とりわけTVがかもし出している空気は許しがたいし、そもそも、みんながみんなワールドカップに興味を持っているわけではないのだから、朝から晩まで、ことあるごとに番組中でワールドカップを取りあげるような愚はやめてほしいのだ。

冷静になりたまえ。日本はFIFAランキング46位なんですよ。32チームしか出場できない大会に、大相撲でいえば幕内下位クラスの、46位のチームが出場してるんですよ。ほとんどのチームはみんな日本より格上なんですから。だから、勝ったら凄いね、負けたら惜しかったね、それで十分でしょう。評論家・解説者などは、あれこれ言わなきゃならないんだろうけれど、競馬の世界でよく言われるように、予想は逆から読めば「嘘よ」、なんです、彼等の言葉なんか聞き流しておけばいいんですよ。

理性を失って過剰にヒートアップした人間、とりわけ、そんな人間が束になった状態ほどこの世の中で醜いものはありません。




表現は全体でするものだから … - 2014.06.10 Tue

どうも体調が芳しくない。風邪をひいて今日で一週間である。一昨日あたりから熱は下がったようだが、咳がとまらない。安眠が出来ない。それが悩みのたねだ。
そんなわけで、6月になったら書き出そうと思っていた戯曲、まだ白紙のままだ。今月中には第一稿を上げると、土橋くんに約束したのだったが、うーん。

荒川洋治『忘れられる過去』読了。
昔は、身近なところに、あの本が面白い、あの映画は見た方が …、と教えてくれる親切な知人が幾人かいたが、いまはもう誰も …、である。だから、本にまつわるエッセーを多く書いている荒川氏は、いまのわたしにとっては、親切な知人というより、ありがたい先生みたいな存在だ。
荒川氏は、しきりに「自分はあまり本を読んでいないので …」と書くが、それは謙遜というより、比べているひとのレベルが高すぎるのだ。そんなこと言われた、わたしなぞどうしたらいいのか …
本のタイトルになっている文章では、近松秋江の「黒髪」をとりあげている。作者の名前と作品名は知っていたが、もちろん、無学なわたしが読んでいようはずがない小説。
作家自身らしき男が、京都の祇園町の遊女に入れあげて、なんとかしたいと、執拗にアタックするのだが、女はなんのかのといって、男の要求には応じない。読者の目には明らかなこと、つまり、男は女にいいようにあしらわれている、ということが当人には分からないと、そういう話であるようだ。
以下は荒川氏の文章の終盤。

待って、待って、待ちくたびれる。そして「根負け」して、自分から出かける。この繰り返しについて、秋江はどう思っているのか。同じことを書いているという気持ちは、ないのではなかろうか。そのときそのときに、そう思ったことが、秋江の場合絶対のもので、少し前に同じようなことがあったとしても、また書いたとしても、そうした過去のできごとはすっかり忘れられた。(中略)これは一度書いたことをたいせつにする文学にはゆるされないことであり、なかなかできないことでもあり、文学としては新しいことである。

面白そうだ。今度読んでみよう。
井伊直行の「お母さんの恋人」というのも面白そうだし、スタインベックの「朝めし」にも興味をひかれる。
山間の夜明け前。子供をおぶった若い女と、綿つみにでかけるらしい若い男、そして、年をとった男。ふたりの男は、女が作ってくれた簡単な朝食を、ああ、うまいなあ、うまいなあと食べ、そして山へ仕事にでかける。
とても短い小説らしいが、これだけの説明でもその面白さが十分伝わってくる。

荒川氏は、40年前に出版社を立ち上げている。出版社といっても本作りのほとんどの工程を荒川氏ひとりでやるような、小さな小さな出版社で、出してる本のほとんどは詩集であるから、実利を目的としてやっているわけではないのは言うまでもない。
そんな事情もあって、要するに、ひとの本のことばかり考えているので、「自分の詩や文章がおろそかになってしまった」と書き(そんなことはないと思うが)、しかし、その文章に続けて以下のように書く。

でも表現は全体でするものであり、誰かがいいものを書く、ということがたいせつであり、わざわざ自分が書くことはないのだ。自分が書く時期はおそらく、自分が思う以上に先の話である。

荒川氏の文章には、体をふたつに折り曲げて、地面を歩いているアリを一匹一匹数え上げているような優しい文章と、対象と正対し直視し一歩もひかない気迫にあふれた文章とふたつがあって面白いが、以下はこの本の中でもっとも調子の高い、感動を覚えずにはいられない文章。

文学は実学である
この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである。
だがこの目に見える現実だけが現実であると思う人たちがふえ、漱石や鴎外が教科書から消えるとなると、文学の重みを感じとるのは容易ではない。文学は空理、空論。経済の時代なので、肩身がせまい。たのみの大学は「文学」の名を看板から外し、先生たちも「文学は世間では役に立たないが」という弱気な前置きで話す。文学像がすっかり壊れているというのに(相田みつをの詩しか読まれてないのに)文学は依然読まれているとの甘い観測のもと、作家も批評家も学者も高所からの言説で読者をけむにまくだけで、文学の魅力をおしえない、語ろうとしない。
文学は、経済学、法律学、医学、工学などと同じように「実学」なのである。社会生活に実際に役立つものである。そう考えるべきだ。 (中略 幾人かの作家と作品名を列挙し)
こうした作品を知ることと、知らないことでは人生がまるきりちがったものになる。
それくらい激しい力が文学にはある。(中略)文学を「虚」学とみるところに、大きなあやまりがある。科学、医学、経済学、法律学など、これまで実学と思われてきたものが、実学として「あやしげな」ものになっていること、人間をくるわせるものになってきたことを思えば、文学の立場は見えてくるはずだ。

世の中にはいろんなひとがいるから、とか、ひとはそれぞれでいいんじゃないの、とか、自分の考えをひとに押し付けるのはよくないよ、等々、近頃とみにこんな言葉を耳にするが、こんな言葉は、自分の意見を持たないことを覆い隠す、まやかしにすぎない。互いにことばを尽くしあう面倒を回避しているだけだ。
それらの醜い<いいわけ>に比べて、上記の荒川氏の断言の気持ちよさはどうだ。

前にも一度触れたことがあるのだが。わたしの若い知人の書いた戯曲が、東京で上演されることになったのだが、その知人の話を聞いてるうちに、わがことのように腹立たしくなった。
とにかく、制作サイド以下、やる気がないとしか思えない。演出家氏、何点か直してほしいと要求をしただけで、その要求が曖昧模糊としていて、印象から言えば、頭の悪い学生レベル。おまけに、どれほど忙しいのか知らないが、その連絡もひとまかせ。明らかになめてる。わたしの知人のみならず、演劇を、表現を、そして、自分自身を。
これ以上詳しく書くと当人に迷惑がかかりそうだから、ぼんやりと書くしかないが、先の荒川氏の文章に書かれてあったことと同じで、この国の演劇はすっかり壊れてしまっているのに、多分その事実に気づいてないのだろう、「ハ、ハ、のんきだねェ」という、危機感ゼロの仕事ぶりで、この作家の処女作だから、出来るだけのことはしてやろうとか、この作品で世の中の演劇ファンの度肝を抜いてやろうとか、そんな優しさも野心も微塵も感じられない。誰だ、この程度のやつに演出をまかせようと決めたのは。

二週間ぶりに散歩をしたら、近くの川のかわべりに、色とりどりの花が咲いていた。いつの間に?!
しかし。花がきれいだと思うのは、からだが弱ってる証拠だ。早く元気にならねば。

ケロリンと生きるという選択 - 2014.06.06 Fri

喉がひりひりするので、まだ花粉が? と思いきや、どうも風邪をひいてしまったらしい。少々熱っぽくてからだもだるい。

火曜日、ウイングフィールドで芝居を見た際、わたしは冷房の風が直撃する席に座っていたのだ。多分、あれが原因だ。その日はなんということもなく、翌日の午前中は2時間ほど散歩をしたのだが、体調の異変に気づかず、夜、お風呂に入ったのもまずかった。床につくがなかなか寝つかれず、眠れないまま朝になって、ようやく体調不良に気づく。
幾日も続いた猛暑にダメージを受けて、からだが弱ってもいたのだろう。

横尾忠則の『隠居宣言』読了。編集者の用意した質問に横尾が答える、という体裁になっている。大半の質問は、「隠居」に関するもので、となると、結局のところ、横尾は自らの人生観が語るほかなく、退屈ではないのだが、似たような話の繰り返しで途中で飽きてしまった。質問が似ているのだから、答えが似てしまうのは当たり前の話だ。

ここで何度か前に書いた、深沢七郎と健さん。おふたりとも横尾とはつながりがある。もちろん、意図していたわけではない。
F・S氏は、彼の団子屋の包装紙のデザインを横尾に依頼していて(ただで!)、また、横尾の健さんファンは有名で、あれはなんの映画祭だったか、背中に刺青を背負った健さんを真ん中に置いたポスターも描いている。それがきっかけなのか、11PMで実現したふたりの対談は、ともにもじもじして10分ほど何も喋らず、そのまま終わってしまったことで、いまも伝説となっている。

隠居宣言は、自由の獲得のためだったと彼は書いている。まさに時代の寵児であったイラストレーター時代は、忙しいばかりでほんとに辛かった、と。そして、隠居生活の快適を知って、あと10年早く宣言すべきだったとも。

よく、仕事に追いまくられて忙しい状態を、自慢げに語るひとがいるが、イスラムの世界ではそういうひとは軽蔑の対象になるらしい。神への祈りに割くべき時間を削って働いているからだ。

いまだに「生涯現役」を誇らしげに語るひともいる。横尾は、定年になったらもう働くのをやめて、好きなことをしながらのんびり暮らせばいいのにと書いているが、わたしも同感だ。
サラリーマンにはある定年が、わたしらのような仕事にはないので、自分で決めなければならない。横尾の宣言はそういう含みがあったようだ。ま、需要がなくなれば自然にリタイア、ということになるわけですが。

一度は読むのを放棄したが、一応最後まではと思い直し読むことにしたら、こんな箇所があった。

「異路倫」と書いて「ケロリン」って読むんです。異路倫っていうのはどういう意味かというと、「アウトサイダー、異端」っていうことです。ドロップアウトしたっていうことかな。つまり、世の中の約束事、慣習、慣例、習慣、常識、定番、法律、法則を無視した生き方ですね。(中略)そういう生き方の技術を学ぶ、隠居の技術っていうのはそういうもんじゃないかなと思いますね。

これは、隠居と隠者とはどう違うのかという質問への回答で、鴨長明(隠者の代表)みたいな生き方は、ストイック過ぎるでしょ、もっと気楽に、という言葉につなげたもの。

アウトサイダー、異端というとなにやら大仰だが、ケロリンという音がいい。ふざけているようで、カッコイイ。




荒唐無稽の彼方へ - 2014.06.04 Wed

先週の金曜は、浦和のハローワークに行って失業保険の手続きをし、日曜はダービーデーでPOGの岩本メンバー宅でTV観戦の後、今年のドラフト会議、月曜は横浜で松本くん演出の「ニッポニアニッポン」を観劇し、今日は大阪のウイングフィールドで、A級Mの「あの町から遠く離れて」を観劇。東奔西走の一週間でありました。

ダービーは負けても3着は外さないと思われたTワールドがよもやの5着で馬券外れ。
昔から、馬七人三と言われていて、これは、勝敗の結果の3割くらいは騎手の責任、という意味。
Tワールドと勝ち馬の差はほんのわずかで、騎手のレース中の位置取りやいつどこでスパートをかけるのか、その判断次第で、結果はひっくり返っていたはずだ。
一瞬の判断の間違い・遅れが致命傷につながるのは他のスポーツも同じで、実に恐ろしくも厳しい世界である。

ひるがえって、芝居の世界はどうかというと …
多分、本当はスポーツとさほど変わらない厳しさが要求されているはずだが、残念ながらそのように感じさせる舞台が稀有である、というのがこの国の演劇の実情であろう。

これまでも何度か書いてきたが、今日見たA級Mの演出家である土橋くんの舞台は、その稀有なもののひとつだ。
10日ほど前、10月に上演してもらう戯曲の参考にと、今日見た芝居の稽古を見せてもらった際、幾つか気になる箇所があり、あそこはああすればいいのにと思ったが、話す時間もなく、なにも言わずにその日は帰ったのだが、そのわたしが感じた疑問点のほとんどが見事にクリアされていて、とても感心してしまった。

俳優にアマ・プロの差はなく、上手い・下手の2種類しかいない。松本演出の芝居を見て改めてそのことを思った。
何十年というキャリアを誇り、おそらく当人はプロであると思っているはずの俳優諸兄の、あまりの下手さに驚いた。満足に立ってもいられないし、もちろん、歩けもしない彼等。

演技を構造的に考える、などということを考えたこともないし、教育を受けたこともないし、教育・指導を受けてもピンとこないのだろう。だから、やってることは素人の高校生と基本的にはなにも変わらないのだ。ただただ一生懸命、力任せにやっているだけで、そう、一生懸命やれば客に伝わるはずだと思っているのだろう。

台詞をからだで割る、からだを台詞で割る。どこでどう割ったらいいのか。自らの演技を構造的に考えるとは、簡単に言えばそういうことだ。
土橋くんの演出は、多分そのように緻密に考えられていて、俳優諸兄もそういう指示によく応えている、そんな当たり前のことが当たり前になされている、そのことに感心したのだった。

もちろん、不満がないわけではない。テキストの面でも演出の面でも、明快な論理や正確さを裏切るようななにか、それは
蓮実重彦風に言うならば野蛮さというようなものかもしれない、そういう<突き抜けたもの>が欠けているように思われた。これまたここでも繰り返し書いているように、ひとは<分からないもの><得体の知れないもの><危ないもの>に魅かれるはずだが、そういうものが足りない、色気と呼んでいいのかもしれないナニカが。

とはいえ。論理性などハナから無視しているような舞台が氾濫している現状を鑑みれば、上等な芝居というほかないのは言わずもがなで。

劇は、認知症かと思われる老人が鳩にエサをやっているところから始まるのだが、その鳩を臆面もなく俳優が演じるという奇手を使い、しかし、それを単なる客受けを狙った奇手に終わらせず、その後の物語のフィクションの強度を保証している。即ち、浦島太郎(らしき者)のゴジラ(らしきもの)への変身等、荒唐無稽な設定を無理なくわれわれに了承させるのだ。論理的な作りとはこういうところを指している。

お客も入っていた。わがことのように嬉しい。やっぱり客の入らない芝居はダメだ。

10月の公演。老骨を鞭打ち、なんとか少しでもA級Mの力になりたい。今日の芝居を見て、改めて強くそう思った次第です。


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