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2014-04

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ともだちになりたい - 2014.04.28 Mon

昨日のこと。15時半。目を皿にして競馬のパドック中継を見ていると、携帯にメール。
誰だ、このくそ忙しい時にとしばらくほったらかしにしていたら、続けざまに何本も。

東西のメインレースを外し、意気消沈でメールを開けると、NIPPONなんとかという文字が並んでいる。
見てみると、16~17時にお宅に380万円が届く、それを受け取る意志はあるか? という内容。
うん?退職金の一部かなにかかな? と思い、返信せよというので、「了解」と送る。
と、間をおかず、同じ差出人から同じ内容のメールが。
そこでやっと、これは詐欺だなと気づく。

冷静になって考えれば、いまは郵便公社とでもいうのか、とにかく郵便局がわざわざそんなメールを発信するはずもなく、ましてや、送り主も誰だか分からないのだ。
当然、無視すればいいのだと思ったが、待てよ、この種の詐欺がどういう手順でなされるのか、いい機会だから、ひっかかった振りをして、ちょっと取材してやろう、いま書いてる戯曲に使えるかもしれないし、と思ったが …
そんな軽い気持ちで突っ込んで、もしも怖いお兄さんが出てきて、後戻り出来なくなったらどうするの? と思い直し、やっぱりやめる。自慢じゃないが、わたしは気が小さいのです。

それから20本ほどメールが送られてきて、今朝起きてメールを確認したら、届くお金が980万にはね上がってた!
子供だましとしか思えない手口だが、ひとはいつも冷静な状態でいるわけではなく、落ち込んでいたり、逆に調子に乗って舞い上がっていたりしてるときに、こんなメールを貰ったら、ラッキーと思ってひっかかってしまうのかも。

新しい住まいはこれまでと違って、仕事部屋とテレビのある部屋が別なので、テレビを見てる時間が大幅に短縮。
野球もみなくなりましたな。最初の3回くらいまで見て終わり。競馬中継を除くと、見ている番組といったら、月曜夜の「明石家電視台」、水曜夜の「今ちゃんのじつは…」、日曜夜の「大阪ほんわかテレビ」、それに月~金朝の「よーいどん」くらい。よく考えたらみんな関西ローカル番組だ。

昔、詩人の鈴木志郎康が、みんなNHKの朝の蓮ドラをマンネリでどうのこうのと批判するが、例えば、田舎に住んでいて、子供たちはみんな都会に出て行ってる、そんなひとり暮らしの老人達の中には、あれが楽しみで、登場する俳優だけが自分の親しい知り合いだと思ってるひとがいっぱいいるはずだ、などと書いていたが、それ、よく分かる。

前述した「よーいどん」は、関西テレビの朝のワイドショーなのだが、その司会の局アナの高橋真理恵さん、このところ毎日のように見ているので、なんだか近所の、昔からよく知ってるかわいいお姉ちゃんのような気がしてきて…
それにレギュラーの円広志が。

東京のテレビではほとんどお目にかからないが、関西では毎日のようにその顔を見かける人々。
やしきたかじん、上沼恵美子、なるみ、円広志がその代表選手だったが、たかじんは亡くなり、上沼もこのところ露出を減らしていて、なるみはどんどん退屈になっている、と。そのなかで円広志だけがますます健在。飛んで飛んで、いま絶好調でしょ。いつ見ても面白い。
 
「よーいどん」の冒頭に置かれている、あちこちの町をぶらぶら歩いて、いろんなひとにインタヴューする「となりの人間国宝さん」。このコーナーの円がとてもよい。見知らぬ素人相手に的確な突っ込み・ぼけを織り込みながら、笑いあり時には涙あり。わたしのように人見知りの激しい人間から見たら、ほとんど神業だ。

ともだちになりたい。

しかしこのひと、パニック症候群だったのでは? もう治ってるのかな?


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咲いた花は枯らせねえ。そのかわり … - 2014.04.25 Fri

「花札渡世」(1967年公開)を見て、しばし陶然となる。

「わたしの幻の映画ベスト3」というものがあって、それは、ここでも採りあげた「帰って来た狼」、「とめてくれるな、おっ母さん」、そしてこの「花札渡世」。実は、今月これを放映すると知って、この映画を見るために東映チャンネルと契約したのだ。
なぜ幻なのか。もちろん、面白いということが大前提だが、封切り時もそれ以後も、ほとんど批評の対象にならず、名画座等で上映されることもなく、ビデオ・DVD化されてもいないので、見たくても見られない、存在してるのに存在してないみたいな扱いを受けてると、そういう意味である。
それがとうとう …(泣く)。東映チャンネルさん、ありがとう。

40数年ぶりの再会。他の2本には正直少々がっかりし、「まだ俺ぁ、がきだった」(健さんの唄の歌詞)ことを確認させられてしまったが、これは違う。凄い。脳裏のなかに微かにあったものよりも数段凄かった、というか、40数年前はよく分からないまま、なんかスゴーイと思っていただけではなかったろうか。

設定された場所は東京の下町。時は満州事変がどうこうという台詞があったから、1930~35年頃か。
シークエンス(ひとつの話のまとまり)の変わり目に、花札のアップがある。花札には花と動物がかいてあり(そうでないのもある)、それぞれが月を指し示している。つまり、正月になる前に松に鶴の花札が、秋になると鹿に紅葉の札がという具合に。ベタといえばベタだが、ちょっとハイカラな、フランス映画みたいな台詞が時々あったりして、そのミスマッチ感が危うさにつながり、もちろん、その危うさがスリルにつながるのだ。

梅宮辰夫演じる主人公は、やくざだが、暴力系ではなく、タイトル通り、賭場で花札勝負をするのを生きがいとしている、正統派のやくざだ。
彼をとりまく女性たち。ひとりは、わらじを脱いでる一家の親分の娘。ひとりは、亭主(実は父親)と一緒に、賭場から賭場を流れ歩いて、いかさまをやっている女。もうひとりは、梅宮は、親分の愛人の家作に住んでいるのだが、同じその家作の一部屋を借りて住んでいる、大阪から家出してきたバーの女給。

親分の娘は、戸籍上では親子だが、実は親分と血のつながりはなく、ふたりは性的な関係をもっている。しかし、梅宮のことを好きになり、梅宮をわがものにするためには手段を選ばない。バーの女給を梅宮の恋人だと誤解し、なんとかふたりを切り離そうと、子分達に彼女をレイプさせ、さらには、神戸の女郎屋に売り飛ばさせる。

血のつながらない父娘が一方にあり、その一方には、夫婦と偽る実の父娘。更には。多くのやくざもんと同様、梅宮も家族・故郷喪失者で、だからこそ、やくざという疑似家族組織に身を置いているわけだが、賭場で知り合った老いかさま師となぜか気があい、互いに父・子のような親近感を持つようになる、と。これは家族とか血とはなにかを巡るお話なのだ。

老いかさま師の名は、「素めくらの石」。素めくらというのは、いかさまの手段のひとつと思われる。演ずるはバンジュンこと伴淳三郎。彼は梅宮に、なぜいかさまなんかするんだと問われると、博打は運否天賦で、結果はお釈迦様にも分からないが、しかし、そのお釈迦様でも分からない結果を自分で思うように出来ることが楽しいといい、そして、いかさまのための細工を考え、作っているときはもっと楽しい、などと答える。
バンジュンの素晴らしさは、確か以前にも、森崎東の「黒木太郎の愛と冒険」を取り上げたときにも書いたかと思いますが。

映画全編、一部の隙も無駄もないのですが、バンジュンの演技が特にそうで、よくプロ野球中継の解説者が、田中マーくんは速球もスライダー等の変化球も同じ腕の振りで投げるから打ちにくいんだ、みたいなことを言うけど、バンジュンもそんな感じで。喜怒哀楽がほとんど同じ感じで出てくる、だけど、それこそ、打者の手元でボールが微妙に変化するように、台詞の最後の音の微妙な変化、あるいは、ちょっとしたなにげない仕種で、喜怒哀楽を表現してしまう。

親分を演じるのは遠藤辰雄(後に多津朗に改名)で、その弟分が安部徹。ともに悪役専門の俳優さんで(例外もある)、
当然のようにここでも悪役を演じているのだが、ふたりの掛け合いがまことに息があっていて、悪党ながら憎めない。と思わせつつ、ここぞという時には、一転、それでも人間かと思わせるような悪党に、それも一瞬にして変わるので、驚く。とりわけ、通称エンタツさん。こんなに出番が多くしどころも多い役は、この映画のほかにはないのではないか。

素めくらの石は、エンタツ氏の賭場でもいかさまをやり、エンタツ氏はそれに気づくが、あの腕は使えるということで、一家の客分に迎えることにする。と、一緒についてきた女房(実は娘)にひとめ惚れ。ふたりきりになったところで、俺の女房にならないかと彼女をかきくどく。このシーンのエンタツ氏が凄い。やあやあまあまとにこやかな調子から、自分は秀吉を尊敬している、今度町会議員の選挙に出るのも秀吉のように …、と演説口調の熱弁をふるい始めたと思ったら、女に接近して猫なで声で甘いことばを囁き、女がうんと言わないと見るや、おまえくらいどうにでも出来るんだぞ、とドスのきいた声で女を脅しにかかるのだ。

この石の娘を演じるのが鰐淵晴子。ああ、鰐淵さん。若い人はご存じないと思うけれど、戦後すぐ、美少女天才バイオリニストとしてその名をはせたひと。お父さん著名なバイオリニストで(多分)、お母さんはドイツ人だかオーストリア人。ハーフの絶世の美人と言うことで、後に俳優に。
一度、わたしの芝居にも出演してもらって、いわゆる天然というのでしょうか、おおらかで、楽しいひと。旅公演で鳥取に行き、鳥取に来たら砂丘でしょう、というわけでみんなで砂丘に行き、花火なんかしたわけですが、そのときの鰐淵さんの子供みたいなはしゃぎよう、今でも忘れられない。

忘れられない、と言えば。例によって例の如く、この映画も大半は忘れていたのですが、覚えていたシーンがふたつあり、ひとつは、カチカチカチカチ(正確ではない)という奇妙な音がオフから聞こえ、そしてシーンが変わると、その音は、賭場の客たちが手札を鳴らしてる音だった、というシーンというかその音と、もうひとつが鰐淵さんのシーンで。
エンタツ氏のことばに従って客分になったいかさま親子は、梅宮と同じ家作に住むことになるのですが、外は雪が降っていて、こっちの部屋にいる梅宮がふっと正面に目をやると、窓越しに、向こうの部屋の窓から上半身をのぞかせている鰐淵さんが見える、と。この時の、大袈裟でなく、筆舌に尽くしがたい鰐淵さんの色っぽさ。これはハッキリ覚えていたのでした。
ああ! でも、この映画のこと、すっかり忘れていて、鰐淵さんに話せなかったんだ。口惜しい!

話を戻そう。で、結局、花札で決めよう、つまり、俺が勝ったらお前は俺のものになるんだ、という話になる。
エンタツ氏の代理人が梅宮、女の代わりに勝負をするのはバンジュン。

映画の冒頭でバンジュンはふたつのいかさまをやる。ひとつは手元に置いた財布の金属部分に、配る花札をこっそり映すというもので、もうひとつは、客のふりをした鰐淵さんが、これは手ごわいと見た梅宮の背後に座り、梅宮の手札を盗み見て、対面に座るバンジュンに合図を送るというもの。手札はなんだったか、とにかく鰐淵さん、舌をそっと出して唇を舐める、その合図がまた色っぽいこと!

で、女を賭けた勝負でも、形勢不利と見るや、バンジュン、再び仕掛ける。寿司の器に入ったしょうゆに札を映して、梅宮の手札を盗み見、そして最後に逆転して勝ってしまう。
このシーンもいい。立ち会ってたエンタツ氏、負けたかとぼそっと言って席を立ち、梅宮の背後まで来ると軽く梅宮に蹴りを入れ、こっちは激怒すると思っていたから、その軽さを逆に怖い、本物!と思ったのだが、やはりそれだけでは終わらず、振り向きざま、梅宮の背中に強烈なのをもう一発お見舞いしていなくなる。
と、バンジュン、先に記したいかさまのネタをばらし、それを知った梅宮とふたり、大笑いをする。

次の日。近所の川べりにバンジュンの死体。もちろん、やった(やらせた?)のはエンタツ氏。
警察の死体安置所で、梅宮は鰐淵に逃げろといい、そして親分のところへ行って、旅に出させてほしいと願い出る。
ちょうどそこにいた親分の娘、じゃわたしも。ふたりで駆け落ちでもしようかしら、なんて軽口を叩くと、エンタツ氏、「そいつは無理だ。こいつは梅子(鰐淵さん)と駆け落ちするつもりなんだから」と言う。顔色を変え、口惜しさをあらわにする娘。エンタツ、出かけるから下駄を出せ、というが娘は動かない。いいんですねえ、ここらあたりも。もうひとり、安部徹も同席していて、この男はこの娘と結婚したいと思ってるから、安部にとって梅宮は娘を間に挟んだ恋敵で、エンタツ氏にとっても梅子を挟んだ梅宮は恋敵。
で、エンタツ氏、玄関まで見送りに来た梅宮に、組の今後のことを考えるとお前を手放すわけにはいかねんだよと、笑顔で話してると思ったら、振り向きざま、手に持っていた、杖かと思ったそれが仕込み杖、それで梅宮に斬りかかる。もの凄く驚くが、その次のカット、突き刺すように構えるエンタツ氏の顔の怖いのなんの。それからの立ち回りが凄い。当然、安部徹も加担し、二人がかりで梅宮を攻め立てるが、この時、異口同音に「この野郎、色男をかさにきやがって!」と言って切りかかるのだ。笑わせる。男の嫉妬、自らの容貌に関するコンプレックス? あれやこれやが重なって、ふたりのブ男の攻撃の激しさたるや! 
しかし。ここらへん、ものすごくプロットが練られていて、結局、エンタツ氏は殺されるんだけど、安部はそれをやり過ごす。つまり、エンタツ氏が殺されれば、組も娘もわがものに、という計算をしてる、と。

梅宮は、梅子が待っているホテルへ。このシーンもいい。梅宮はこれから警察に行くが、刑期を終えるまで待っててくれといい、そしてふたりはベッドインということになる。でも、梅子はこれが初めてで、自分はずっと堅気になりたい、普通のお嫁さんになって、初めてする相手は堅気の男と決めていた、という。
と、近所の飲み屋から、「赤い火、青い火、道頓堀に ~」というタイトル失念の唄が流れてくると、梅宮は、神戸に売り飛ばされた大阪の女を思い出し、「あいつにも悪いことをした …」と呟く。

それから5年。刑期をつとめあげ、シャバに出てきた梅宮は、ふたりの約束の場所に来るが、彼女はいない。約束の日はとうに過ぎていたのだ。俺をたずねて女は来なかったか、みたいな話を茶店のおばあさんに聞いていると、彼からは見えない壁の後ろにひとりの男。こいつは刑事で、こいつも梅子に惚れていてずっと彼女をつけ狙っている。演じるは西村晃。晩年は黄門様なんかやりましたが、こういう蛇みたいな嫌な男をやらせたら天下一品。
と、雨が降ってきて、向こうから傘をさした女が。縦一に、刑事、梅宮、傘の女と並ぶ構図が素晴らしい。
梅宮は梅子が来たと思うが、おばあさんは、「違うよ、あれは立派な大店の奥さんで、近くに父親の墓があるらしく、毎月、月命日には来てるんですよ」と言う。
茶店に入り、傘を畳むと、やっぱり梅子だった。梅宮が声をかけると、彼女はひと違いじゃないか、と言う。
「梅子だろ」「違います。わたしは井上咲子、梅子なんて名前じゃありません」「そうか、梅が咲いて咲子になったか」「梅は咲いても、桜はまだでございますね」「とんだからくりだ」

なあんて小洒落たやりとりの挙句、彼女がいまも自分をつけ狙っている刑事がいて、彼に自分の素性をいまの家族にばらされると …と言うと、梅宮は、俺に任せろといい、そして、

「一度咲いた花は枯らさねえ、そのかわり、そのためにてめえの命を賭けた男がいたことを、…忘れないでくんねえ」
なんて言って、男は立ち去ると。ああ、胸に染み入りますです。

ラストまであと少し、まだまだ書きたいことは山ほどありますが、長いし疲れたし、これで筆をおくことにします。

しかし、分からん、こんな映画がなにゆえにこれまでずっと無視され続けられているのか。
海外の映画祭なんかで、「日本のフィルムノワール」なんて特集やって、その中の一本にこれを入れたら、西洋人はみんな驚いて拍手喝采するのではないか、と思うけれど ……

脚本・監督の成沢昌茂は、監督として何本か撮っていますが、溝口健二の晩年の作品のメイン・シナリオライターとして著名なひと。もしかしたら、それが映画監督としての力量を見くびらせているのかも?



エンゲル係数 - 2014.04.23 Wed

必要あって地方競馬のことを調べていたら、かってこの国には100を超える競馬場があったと知ってショックを受ける。わたしが長く住んでいた板橋にも競馬場があったなんて。
100を超えるといったって、同時期に100あったわけではなく、増えたり減ったりして数え上げれば、ということですが、しかし、いまはJRAが10、地方競馬場がばんえいを含めても20くらいですからね。

映画館も減りました。学生時代、わたしが住んでいた埼玉の与野から大学があった高田馬場まで、20ほどある各駅前には、すべて映画館がありました、というか、山手線はいうに及ばず、私鉄のちょっとした駅前にだって映画館はあったのに、いまは …
映画館が潰れたあと、多くはボーリング場になり、それがスーパーに代わり、それがいまは大半飲食店になっているのではないか。

ネットのニュースが、そのファストフード店をはじめとする飲食店にバイトが集まらないと報じている。それで、やむなく時給を上げてきてると。しかしその分、労働条件も過酷になっている、とも。
よく学生たちに、バイトの時給は不当に安いからみんなでストライキしろと煽っていた。どこだって学生バイトがいなきゃやっていけないんだから、やれば必ず成功するから、と。安い時給で稼いだお金で安いファーストフードを食べてる、これ、タコが自分の足を食って飢えをしのいでるのと同じだよ、と。
学生たち、どうも自覚がないようだったが、わたしの学生の頃に比べても、ほんとに耐乏生活をしいられてる。

学生の頃、つまり40数年前、わたしは家から2万円送金してもらっていて、それに月に5千円分くらいのバイトをすればフツーに暮らせた。まわりの友達も大体それくらいだったはず。当時、多分ラーメン一杯が50円くらいでいまはそれが500円くらいだから、換算すると、いまなら一ヶ月25万円の生活。でも、ひとり暮らしのいまの学生諸君の生活費、多分20万を大幅に割っているのではないか。その厳しい生活費の中からスマフォ代を毎月1万くらい払ってるわけでしょ。キツイワ。芝居や本等々の「文化費」にお金を回せないのも無理のない話で。

テレビの番組も、スポーツ中継とニュースを除いた番組の、60~70%はなんらかの形で飲食に関するもので占められているのではないか。エンゲル係数65%! 超貧乏。その一方で、ダイエットがどうの健康がどうのと言ってるわけだから、ほとんどビョーキの世界だ。

貧乏でビョーキ。これは日本だけじゃないはずだから、いわゆる先進国、すごいことになってる。

多分、70年代までの映画や小説や芝居の大半のテーマは、貧困だった。貧困=食えない。貧しさゆえの戦争、貧しさが恋愛・結婚の妨げになり、貧しさが家庭の離散・崩壊を招き、貧しさが犯罪に走らせる、等々。

先頃見た映画、「夜の牝犬」(監督・村山新治)もそんな映画で。ゲイバー(?)で働く梅宮辰夫と、やくざの親分にとりいってスナックのママにおさまってる緑魔子が主人公。男は店の客の料亭のおかみの亭主になって、女は親分に離婚させて奥さんにおさまって、とにかく金持ちになるべく、あの手この手で夢に近づこうとするが …というお話。典型的な60年代の映画だ。

何度も繰り返し書いてきたが、昔のこういったいわゆるB級のプログラムピクチャー、例外がないわけではないが、ちゃんと映画になってる。最後は刺したり殺されたりバタバタするのだが、ちゃんと飽きさせず見せてくれる。
女優陣の健闘が光る。緑魔子と親分の奥さんを演じる沢村貞子のつかみ合いの喧嘩。凄い迫力。本気じゃん! と思わせる。何年か前に亡くなった大原麗子が北海道から家出してきた女の子をやっていて、これが、えっ? と思うほどいい。
ちょっとアタマが弱いけど純真無垢で …という、フェリーニの「道」のジェルソミーナみたいな、下手すれば引きそうな役を見事に演じてる。

でも、こういう話もこういう役もいまは成立しない、多分。ほんとにおいしそうにご飯を食べる麗子さんにひきかえ、今の子はみんな不味そうにメシ食うし。テレビのグルメリポーターなんかも、「ウマーイ!」と絶叫しておいて、一口二口しか食べない。ま、あちこち回らなければならない事情もあるのでしょうが。
これもネットニュースで見たのかな、牛丼なんてみんなメシじゃなくエサだと思って食べてるはずだ、と。


唐突に結論。
豊かさってなんでしょう?
 
そうか。「牛丼とスマフォ」というタイトルで、今日の貧困を書いてみるのも ……?


泣かない女はいない - 2014.04.18 Fri

『未明の闘争』読了。ふー。読み終えるのに二週間かかったわけだが、こんなに小説にずっぽりはまってしまったことがかってあったろうか?

不思議な二週間だった。小説自体が記憶が記憶をよび、呼び出された記憶が妄想や幻想をかきたて、夢と現実が交錯する。だからいわゆる幻想小説かというとそうでもなく、犬や猫の生態、男女の性愛、いまも続く男同士の友情等々と、それだけを取り出せばフツーの小説でも繰り返し書かれてきたようなことが書かれている。

不思議だというのはそういうことではなく、見るもの聴くものすべてがこの小説に関連づけられ、『未明の闘争』はまるでターミナル駅みたいだった。
例えば、同じ日に買い、前にもここで若干触れたリョサとマルケスの対話を読んだあとに、この小説の中に、マルケスの『族長の秋』の話が出てきたり、残り三分の一くらいのところで、ものすごくかっこいいシーンが出てきて、それは

星川と不倫相手の若い女性が、酒も飲めるダンスも踊れるみたいな店に入り、しかし、女は星川の態度が気に入らないのか、サッカーのゲームに興じている外人グループのところに行ってキャッキャ遊んでいる、外人のひとりは女の背後から自分の体を押し付けている、それを見て星川は我慢がならず立ち上がろうとすると、隣にいた外人が彼を押しとどめ、これを聴けという、なんだ? と思ってると、マッド・ドッグス&イングリッシュメンの「ホンキー・トンク・ウィメン」が流れ、すると、店内にいるみんながいっせいにその曲にあわせて歌いだし、踊りだし

というくだりだが、まるで映画だ、この呼吸・センスはマキノ映画と同じだと思った、と。そしたら、少し読み進んでいったら、

悲しさを自覚するより先に悲しいときしかしない癖を体の方はしているように

という文章が出てきて、あ、これもマキノ雅弘と同じだと思った。

今週の火曜に、ネットで「900冊収納可」とあった本棚が届き、まだ段ボールから出せずにあった本を取り出すと、山根貞男と山田宏一さんのマキノ本2冊が出てきて、マキノが「演技とは要するに、重心をからだのどこに置いて、それをどう意識するのか、そして、感情の移り変わりを重心を移動させることによってどう表現するかだ」というようなことを書いていたのを思い出したのだった。

また、これもこの本と同じ日に購入して、前にも触れた前田英樹氏の「剣の法」の例えば、以下のような文章と

青岸の順勢に切り収まった刀を、そのままの角度で頭の左横に上げる。この時、刀は頭の左横で、左から右に向けて四十五度の角度で傾いています。傾いた刀の刃は上を向いている。この姿勢は、頭上に来る相手の切りを防ぐ形になっています。ここから、両手を逆勢に返し、今度は刀を右から左に四十五度傾いた形に転換して   (P120)

この小説の次のような描写

それが注意を削いだのか、マウンテンバイクの青年が犬をよけたら芝生に乗り上げるとよちよち歩きの子どもにぶつかりそうになり、犬がワンワンワン! と激しく三回吠え、その声が終わるより先に青年はマウンテンバイクごと前にもんどり打って子どもは無事だ。青年とマウンテンバイクは一瞬宙に舞い、子どもはびっくりして泣き出す余裕もないが、青年の背中のリュックサックから居合わせた誰の目にもスローモーションで物が飛び散った。青年のとっさの行動はまわりの人たちの共感を呼び、飛び散ったリュックの内臓物をみんなが拾い集める。キラキラ光る物、ころころ転がる物、さわる前からぬめぬめした物、芋虫のようにもぞもぞ動く物、ある物はさわった途端に    (P358)

このふたつ、厳密さ・詳細さの度が過ぎていることにおいて、ひどく似通っていないか。ヤナギブソンだったら間違いなく次のように言うだろう、「こんな話、誰が喜ぶねん!」と。
前者は全編この調子、後者は横浜の山下公園のある日の光景を描いたものかと思われるが、これがほぼ20頁延々と続き、そして

大きな犬が横たわるカートに向かった。女性が近づくと横たわる大きな犬はシッポを振った。これが共有できない。私はチャーちゃん(星川のかって飼っていた猫)の命日に毎月、納骨堂のある府中のお寺に行くと、犬が人と一緒にお墓参りに来ている。

と、行換えもないままスイッチして、ここからはチャーちゃんが亡くなる少し前の話になるのだ。

前回にも書いたが、まことにあきれた小説で、星川が不倫旅行に出かけると、もう一切奥さんの沙織さんは触れられることはなく、この不倫旅行の話になるきっかけになった、星川が嵐の夜を一緒に過ごした、アキちゃんも小池さんの奥さんの小林ひかるも、そして小林ひかるの不倫の話も、それからどうなったのかまったく触れられないまま、最後はどうなるのかと思っていると、<友達>の家の近所の野良猫ファミリーの滅亡の過程を描いて、終わるのである。
というか、登場人物たちの<物語>の決着はなにひとつつけられていないのだが、ただしかし、このように、最後になってふいに現れた野良猫たちの死によって終わるのだ。

あ、引用した小説、ところどころで、写し間違いじゃね? と思われるかもしれませんが、そうじゃなくて、原本の方で、いらない主語なんかつけたしたりして、間違えているのです。

そういうことも含めて、つまり、厳密さとルーズであることの境界はどこにあるのか、夜のどこから朝のどこまでを未明というのか、とか、先の引用部分にも見られたような、時間・空間が安易といってもいいくらい軽々と乗り越えられるとか、生と死、あなたとわたし、犬や猫と人間、昨日と今日、等々の間の境界は、どこにあるのか、そういうことを認めない、そういうことは考えないようにしている、という多数派への宣言として、タイトルを『未明の闘争』としたのだろう。 

以前にも書いたように、わたしはこの20年ほど、ほとんど小説など読んだことはなく、だから、最近の小説がどうなっているのかよく知らない。知らないままに書くのだが、これはとんでもない小説ではないか。

OMS戯曲賞が今年で(去年か?)20周年になるとかで、それを記念して雑誌が作られ、そこにわたしも寄稿しているということで、この雑誌とそして今年の受賞作を掲載した雑誌も送られてきた。

送られてきたときにざっと目を通し、それから二度ほどちゃんと読もうとしたが、なかなかその気になれない。
3本の戯曲が掲載されていて、選考委員諸兄は皆さん、今年は粒ぞろいと高い評価をされているのだが、それぞれの冒頭の台詞のやりとりを読んで、そう、見開き2頁のその次の頁を繰る気になれない。
それぞれ工夫をされているようだが、どれも台詞のベクトルが客席の方を向いていて、ということは、いまもこれからも営々と演劇はこれまでのように<演劇>としてあり続けると考えているのだろう。
たとえば中の1本にこんなのがあった。
おかしなロックバンドがいて、彼等は鮭をギターにし、古いラジオもギターにし、というのだが、これ、ほんとに面白いのか? 3分のコントのネタにしかならないのではないか?

こういう言い方も嫌味だが、たとえば、先に引用した前田氏や保坂氏の文章をそのまま声に出して読んだほうがずっと「演劇的」であるように、わたしには思える。

『未明の闘争』の最後は泣かせる。が、ここには書かない。気になるひとは最初の1頁を読んで、最後の頁を読んで下さい。へえー、とか、ふーんとか思うのじゃないか、と。

カフカの『審判』は、第一章を書いて次に最後の章を書いて、それから間の部分を書こうとして結局書ききれなかったもので、だから、未完の小説というのとは少し違うと、小説の主人公はいうのだが … 











記録も記憶も塗り替えられる? - 2014.04.14 Mon

またまた訂正とお詫び。でも、今回のものは相当にショック。
前回、亡くなったジョージのことに触れたが、それが<事実>と相当に違っていることが、ウィキペディア調べで判明。

わたしはずっと、ジョージは映画に専念したいと劇団をやめるといって、そのキッカケになった映画は「ネオンくらげ」だと思っていたが、「ネオンくらげ」の公開は73年。しかーし。斜光社を解散したのは79年なのだ、というより、そもそも劇団を旗挙げしたのは76年なのだから、勘定があわないのもほどがある!

なんでこんなことになったのか? いったいいつから<事実>が捻じ曲げられたのだろう?

今回、ウィキ調べでいろんなことが分かった、というか、わたしの記憶はほんとにあてにならないことが。

ジョージと知り合ったキッカケは?
シナリオ研究所で知り合った小澤さんが、研究所を終了後、劇団を作り、彼が作・演出をした芝居にジョージが出演。それで口をきくようになり、その劇団の2回目の公演のホンを、「タケ、書いて」と小澤さんがいうので、わたしが書き、それで親しくなったのだ。
これが多分、70年か71年。

一方、そのシナリオ研究所の講師だった大和屋さんからピンク映画のシナリオを書かないかといわれたのもその頃で、ウィキで大和屋さんのフィルモグラフィを見てみると、70年に「濡れ牡丹 五悪人暴行篇」(監督 梅沢薫)公開とあって、これはわたしのプロデヴュー作、と言えるのかどうか、出来上がった映画を見たらわたしの書いたものの影も形もなかった。同じ年に公開された「(秘)湯の町 夜のひとで」(監督・渡辺護)も、第一稿はわたしが書いて、前作同様、大和屋さんが手を入れ、こっちもほとんど別物になっていたが、わたしの書いた台詞が幾つか残っていた。
ともに、ピンク映画史上に残る傑作。

この頃はよく大和屋邸にお邪魔していて、先のジョージも「行きたい」というので連れて行き、そしたら大和屋さんがえらくジョージを気に入って、ジョージ主演の「セックスハンター 濡れた標的」を書く。これは日活ロマンポルノ作品で、公開は72年。

わたしをして「このひとこそわが師」と思わせた大和屋さんの映画「毛の生えた拳銃」が公開されたのが68年で、彼が講師をしていると知ってシナリオ研究所に入ったのが69年。それで70年には大和屋さんの下でシナリオを書いていたのだから、ここらへんの時間の進み具合が異常に速い。わたしはまだ22,3歳。ジョージも同い年だから、「ネオンくらげ」出演時は25,6歳。若いはずだ。

この頃、歌舞伎町のスナックでジョージと一緒に働いていたのが、いまの木場勝己。ジョージは木場が通ってた俳優養成所の卒業公演を見て、自分も役者に、と思ったのだ。
ふたりは、客の相手をしつつショータイムになると歌を歌っていた。わたしもジョージに誘われてよくこの店に行っていた。結構大きな店で、値段もそこそこしたはずだが、お金を払った記憶がない。ジョージや木場が代わりに払っていたとは思えないし、どうなっていたんだろう?
木場は当時、蜷川幸雄の「桜社」に所属していて、唐さん書き下ろしの「盲導犬」の大役に抜擢されたときは驚き、わたしは唐さんの大ファンだったから、舞台で唐さんの長台詞を滔々と喋っている木場がうらやましくもあったが、とても感動をした。
あれは何年のことだろう? ま、ウィキで調べればすぐに分かるのだが。 

去年の暮れだったか、WOWOWで「盲導犬」の舞台中継を見た。宮沢りえ主演で、木場は初演のときと同じ役。どうにも古臭い、というのが率直な印象。初演時にあったはずの、時代の息吹がまったく感じられないのだ。
確かに、ホンは40年以上も前に書かれていて、唐さんの台詞はよくも悪くも風俗によりそっているから、そのことも古いと思わせる要因のひとつにはなっていて、俳優の演技も、いわゆる熱演という以外、ほかに形容のことばが見つからないようなものだったのだが(主演の男の子は誰だった?)、やっぱり演出が古いというか、いや、「盲導犬」を上演する必然、このテキストでなにがしたいのか、そんなもの、演出家の頭の中になんにもなさそうなのが透けて見えて、だから、台詞の古さがひっかかり、俳優達の熱演が空回りしてるように感じられてしまった、と。
木場もねえ、手持ちの技術でそこそここなしてるだけなんですよねえ。

『未明の闘争』にはまったくあきれてしまう。もちろんこれは、「下らない」と同じくらいの褒め言葉。
ようやく折り返し地点くらいまでにたどりついた。星川(主人公)の家に、アキちゃんという古い友人が夜遅く突然やってきて、ふたりで幽霊・前世の話をする。そこから、ドストエフスキーの「分身」の話になり、そこへ、隣の小池さんの奥さんがやってきて、不倫の話になり、その間に時々、星川が飼ってる猫の話が挿入され、そうこうするうちに、星川が会社の同僚の女性と和歌山へ不倫旅行に行った話しになり、その和歌山には友人がいて、その友人が子供の頃、神隠しにあったという話を彼の母親から聞かされて、等々。もう、ずるずるずるずる次々と色んな話が、印象でいえば、接続詞なく繰り出されるのだ。
以下は、P244の一部。

蛯ガ沢(和歌山の友人)に神隠しの話はイヤなのかと訊くと、
「自分の存在がぐらっとすんねん」と、蛯ガ沢は言った。
人間は不便なものだ。羽根木のマンションにいた頃ピルル(主人公の飼い猫)は小さくて活発でしょっちゅう階段を降りて敷地の外に逃走した。その頃ちょうどピルルとそっくりの黒い子猫がどこからか遊びに来ていて、妻の佐織は、あの子とピルルがどこかで入れ替わっていたらどうしようと、真剣な顔でたまにあの頃のことを思い出すと言うのだが
(以下略)

接続詞なくというのはこういう風に、話し変わってというような前置きがなく、どんどん間断なく、話があっちからこっちと続けられる、という意味で。でも、分身・幽霊・神隠しと、飛んでるようで話は一貫しているのだ。
イビチャ・オシムのサッカーというと、「人も動く、ボールも動く」と言われ、とても自由で遊び心が横溢していて、みたいに思われているが、一方で、彼はよく、日本のサッカーにもっとも足りないものは、ディシプリン=規律だと言っていた。この小説は、そんなオシム・サッカーを思わせる。日本語の正しい文法から時々逸脱し、それがこの上もない自由さを感じさせるが、一方で、実は厳格な規律のもとに書かれているのだ。

さしたる事件らしい事件はなにも起きないが(といっても不倫旅行くらいはする)、この話の飛び具合がスリリングで、あきさせない。先に挙げた「分身」、チェーホフの「学生」への言及、楳図かずおの「半魚人」の紹介等々と、実にネタも豊富で、ここらへんが一時期新しい演劇などともてはやされた「静かな(=退屈な)演劇」群と決定的に違うところだ。

人間の脳は、対象を理解するとき、物語にして理解するように出来てる。それは、三角形の位置に三つの点があると、ひとの顔と認識してしまうのと同じで、ひとが生きていくためには多分、この種の誤認(?)が必要なのだ。
だから、反・物語と言ったって、それはそういう形の物語なのであって、そういう論自体が、間違いなく物語の形式で書かれているはずだ。

幾つかのエピソードをまとめるための装置として物語の形式が必要なのだ。ジグゾーパズルに例えていえば、エピソードはピースで、物語はそれらをまとめる枠のようなものだ。それ以上でも以下でもない。


今気がついたのだが、ジョージたちが働いていたスナックの名は「鴉」。で、ジョージ等がやめ、木場たちと新しく作った「秘法」の旗揚げ作品のタイトルが「あの大鴉、さえも。」。偶然にしてもよく出来てる。

そうだ。ウィキを見ていて気になったことが。あれは70年代の半ばくらいか。いや、もう斜光社を始めていたかも知れないから …。とにかく。大和屋さんに依頼されて書いた「ミラー」というシナリオがあって、結局映画化には至らず、話の内容は、例によって例の如くなにひとつ覚えていないけれど、それがなんと、本になって出版されているらしい。大和屋さんと共作ということになっていて、それは多分、師が手を入れたからだろうが、わたしには今にいたるまでまったく知らされていない。
どういうことだ、これは?



















これをキズナなんて言ったら軽くなる - 2014.04.13 Sun

保坂和志の『未明の闘争』は530頁ある。この一週間ほど毎日読んでいるが、まだ180頁だ。
保坂氏自身がどこかに書いていたが、読み出したらとまらず、ひと晩で読んでしまった、などということを褒め言葉みたいに使ったりするが、ひと晩で読み終えることが出来る小説なんて大したことない。大したことがないからすぐに読めてしまうのだ。ひと晩で読める小説はひと晩で忘れる。そういうことになってる。ウィキペディアは便利で結構だが、やっぱり、ウィキペディアで仕入れた知識はその日のうちに忘れてしまう。

『未明の闘争』は、友人だの飼い猫だのの死を核にしている。<死>を核にして、話しが脈絡なくあっちゃこっちゃする。だから読みにくいかというと、それが逆だ。
風通しがいいのだ。脈絡がないということは、昨日読んだところを忘れていても全然気にならない。というわたしは多分、作家にとっては望ましい読者ではないか。
脈絡がないと繰り返し書いているが、しかし、脈絡がないようで繋ぎはしっかりしていて、思いつきをただ羅列しただけでしょ、みたいな戯曲や小説とはそこが違う。玄人だな、と思う。

保坂氏は若い頃、西武百貨店・池袋店で働いていて、そこの「スタジオ200」というホールの企画をしていたようだ。
わたしにとっては2度目の劇団である「秘法零番館」の旗上げ公演は、そこでやることになっていた。1980年の10月だか11月だったか。保坂氏はわたしより10歳ばかり若いようだが、その頃にはもうスタジオ200にいたのだろうか? 結局、どういう理由・事情があったのか、その企画はNGとなって、急遽、下北沢のスーパーマーケットというライブハウスで公演したのだったが。スタジオ200の半分くらいしかない小さな小屋だったので、計算が狂って上演はずいぶん苦労した。

そんな死の記憶をたどる小説がまるで招きよせたみたいな出来事が。出来事?
東映チャンネルで『ネオンくらげ 新宿花電車』を見る。数年前に亡くなった友人のジョージが出ている。
なんの興味もなかった芝居の世界にわたしを引き込んだのがジョージだった。30数年前のこと。

「タケちゃん、劇団作ろうよ。いい場所があるんだよ。店の客に不動産屋の若旦那がいて、そいつの話だと四谷の駅前に空き地ががあって、家が一軒建ってるんだけど、そこを劇場にすればいいと思うんだ。タダで貸してくれるって言ってるからさ。そこでやろう。タケちゃんがホンを書けば出来るんだから。やろうよ。」

最初の劇団、「斜光社」は、ジョージのこんな誘いから始まったのだった。

ジョージはおかしなヤツだった。わたしと同い年。高校は同棲していたスナックの女の家から通っていた、と言っていた。宮城県の白石市から上京。歌舞伎町をうろうろしていて、やくざの兄貴と知り合い、その兄貴が指を詰めるのを、「見てろ」と言われて見てた、とか。組員ではなかったけれど、山口組が殴りこんできたときは、事務所にいて死ぬかと思った、とか。歌舞伎町で知り合ったベトナム帰りの米兵と喧嘩してどうこう、とか。どこまで本当の話だったのか分からないが、それが話半分だったとしても、ジョージはおかしなヤツだった。
どうしてそんなヤクザまがいの男が芝居なんか? と思われるだろうが、ま、そこがジョージのジョージたる由縁で、さらには、そういうことがさほど変でもない時代だったんですね。

『未明の闘争』のわりと最初のところで、保坂氏と重なる主人公(?)の知人の葬式で、かっての会社の同僚達と久しぶりに出会い、葬式のあと、みんなで横浜で遊ぶくだりがある。ここがとてもいい。他愛もない話が延々と続くのだが、無意味とじゃれあってる、そういう感じで、そこがいいのだ。

この20年ほど、小説なぞというものはほとんど読んでいない。これは前にも書いたことがあるような気がするが、ブルトンは、ドストエフスキーの『罪と罰』を、別にわたしが行くつもりのない質屋までの道順を、なんでこんなに細かく説明するのか、バカじゃないか、みたいなことを言っていて、わたしも同感なのだ。
『未明の闘争』は、もうほんとに、部屋の間取りとか、町の通り等々を執拗に書いている。だから、そういうところはサッサと飛ばして読んでいる。飛ばして読んでも構わないように書かれている、というのはいくらなんでも言いすぎか?

わたしは本を読んでいても、映画を見ていても、その物語の中にずっぽり入ることが出来ず、考えが明後日の方に行ってしまうが、この小説はそのことを許容しているようにも思う。だから、面白いのだ。

ああ、小説だなあと思うのは、これは映画に出来ないだろうなと思うからだ。
映画で他愛ない時間・空間を作るのは難しい気がする。ナンセンスとは違う。アラフォーと思われる数人の男女が、歩きながら延々どうでもいい話をしてる。そんな時間・空間を映画に出来る監督がいるだろうか。

この間見た「トルソ」。若いひとが作る、退屈な日本映画のお手本みたいな映画だった。満たされない日々、ぽっかり空いた心の穴を埋めるべく、アラサーの独身女は、夜、仕事から帰った部屋でひとり、トルソを抱きしめて …
バカじゃないかと思う。この女がメシをまずそうに食うんだ。自業自得だろと思った。

「ネオンくらげ」に出ているジョージは、当然若い。30になったかならないか、それくらいだろう。
そうだ、あいつはこんな話もしていた。「プロデューサーがさ、20年前の日本映画全盛期だったら、お前、裕次郎になってるよってさ」。
裕次郎はともかく、映画の中のジョージは、わたしの記憶にあるジョージよりも数段カッコよかった。

ジョージはこの映画の出演をきっかけに劇団をやめ、ジョージの退団が劇団解散のきっかけにもなった。
封切りのときに見たときは、こんな映画のために劇団をやめたのかと腹もたて、がっかりもしたが、久しぶりに見ると、なんか頑張ってるなあと、少し感心した。そして、ああ、ジョージは死んでもいまでもちゃんとつながってるよ、と『未明の闘争』の主人公みたいなことを思い、少し涙ぐんだのだった。




 

「Moon guitar」ノート - 2014.04.11 Fri

小保方リーダー? マスコミはそう呼んでいる。犯罪者じゃないから呼び捨てにするわけにはいかず、かといって小保方さんというのもナンだしということで、苦肉の策がこれ。昔、スマップの稲垣某が、道路交通法違反かなにかで警察沙汰になったとき、こっちは軽微なものだとはいえ明らかな犯罪者だったのだが、ジャニーズからの指示があったのだろう、稲垣メンバーと呼んでいたが、あれを思い出した。メンバーって。

研究者の常識を持ち出すまでもない、もしもSTAP細胞などというものがないのだとしたら、彼女は社会生活をまともに営めないひとだ。だって、そんな嘘をつくメリットがないでしょ。というか、もしも嘘ならバレるのは時間の問題で、そうなったら、この社会で生きていけなくなるでしょ。と考えるのが普通だと思うけれど。

それにしても、記者会見に250人集まり、なおかつ、テレビ全局が会見を中継するなんて、こっちの方がどうかしてる。そんな緊急性なんかないはずだ。それに加えて、上司との関係を問う質問等々、STAP細胞の有無とはなんの関係もない。品性下劣というほかあるまい。
精神科医の香山リカは、彼女を自己愛が強すぎるとして、ほとんど病人扱いしてしまってる。いいのか?
このひとは、橋下のことも人格に問題があるというようなことを書いておいて、橋下に名誉毀損ではないかと言われたら、そんなことは言ってないなんて、醜い弁明をしていたが。人格的に問題があるのは、このひとの方だと思う。

ほかのひとが読んでもよく分からない研究ノートとはどういうものだろう?

以下は、わたしの創作ノートの一部。別に難しいことが書いてあるわけではないが、わたしのノートを読んでも、おそらく、作品の全容は皆目分からないと思いますが …


・7つの場面で構成する。
 この<決めごと>にはなんの根拠もない。もちろん、7という数字に格別の思い入れがあるわけでもない。
 無根拠であることが、物語の間口を広げ、風通しをよくするはずだ。

・荒唐無稽でありながらリアル?

○この一週間ほどに読んだ映画、本等々からインスパイアされたことば、人物設定。
 

 ・能面のような人、とよくいう。けれども仮面のような人とは、ほとんどいわない。(中略)
  そういう意味では、能面は仮面ではない。  (山折哲雄『能を考える』)
 ・福建省は世界でも有名な不正行為の拠点であり、(中略)1985年から10年間に50万人以上の福州市民が
  海外に密輸された。  (ミーシャ・グレニー『世界犯罪機構 世界マフィアの「ボス」を訪ねる』)
 ・ヴェンダースの映画の魅力は、人の心の底にひそんでいる純心を掘り起こして来るところにあると思える。
            (「ヴェンダース・バンケット」の中の鈴木志郎康の批評から)
 ・もし仮に人間や動物に霊があるとしても、(中略)体がなければ泣きたくても泣くことができない。
 ・思春期の三千回だ。人格形成に影響しないはずがない。
            (保坂和志『未明の闘争』)

 ・カレンダーなんて生まれてこのかた、一度も見たことがない、とうそぶく男。
 ・帽子を決して脱がない男。眠るときだって例外じゃない。なぜか? 
  彼は昔、頭の皮を剥がれそうになったことがあり、そのときの傷を帽子で隠しているのだ。
            (サム・ペキンパー『荒野のガンマン』)

    北原白秋「金魚」

    母さん、母さん、どこへ行た。
    紅い金魚と遊びませう。

    母さん、帰らぬ、さびしいな。
    金魚を一匹突き殺す。

    まだまだ、帰らぬ、くやしいな。
    金魚を二匹締め殺す。
                   (以下略)





 

おとうちゃんはアホなんやッ! - 2014.04.09 Wed

京都に引っ越して、Jコムに加入。東京で契約してた有線とは見られる局数が倍くらい違う。そんなにあるのに、東映チャンネルともオプション契約。月に1500円だから、ま、安いものだ。
その東映チャンネルで早速見たのが、「日本侠客伝 血斗神田祭り」。主演はもちろん健さん。監督はマキノ雅弘。
公開は1966年だからおよそ半世紀前。なのに、なんと瑞々しいことか!

健さんは火消しの纏持ち。物語は大正時代に設定されていて、その頃の東京にはまだそんな組織が残っていたんですね。

この映画、封切りの時に見て、その何年後かに池袋の文芸座のオールナイトでも見ているはずだが、例によってほとんど忘れていた。忘れていたのは、世評に反してわたしのマキノ評価が低かったせいもあろう。この映画も、傑作との評判だったが、詰まらなくはないけど …というのが当時のわたしの評価で。このことはよく覚えている。

で、約50年ぶりに見たこの映画、前述したように、傑作中の傑作でした。

あれはなんといったか、お正月にはしごに乗って消防関係のひとがやる曲芸(!)、あれをロングに撮ったカットがタイトルバックで、それに続いて、木遣りを歌いながら火消したちが町内を練り歩くのですが、揃いの衣装がまあかっこいいこと! そのお正月の平和この上ない風景をぶち壊すように一台の車がやってくる。乗っているのがやくざの親分で演じますのが天津敏。ずいぶん前に亡くなっちゃいましたが、悪役専門の俳優さんで、いいんですよ、体もでかいが顔もでかくて、凄い貫禄。知的な雰囲気もあって、そこがさらに悪党ぽさを感じさせる。

この映画、主だった役どころを演じる俳優達の登場がきまってる。商業映画はこうでなくっちゃ。
かっては健さんの恋人で、いまは呉服屋の若旦那の奥さんになってる、藤純子の最初の登場の美しさといったら!

もちろん、この映画はヤクザ映画ですから、物語は、先の天津敏演じるやくざと健さんたちの火消したちとの抗争がメインになっているのですが、それはあくまでも仮の姿で、実は、これ、ピュアで哀しい男と女の話なのです。

3組の男女がいます。先の健さんと藤純子、鶴田浩二と野際陽子、それに藤山寛美と中原早苗と。
鶴田は大阪のやくざの組員で野際はその組の親分の娘。かれらは親分(=父)がふたりの仲を認めないので、駆け落ちしてきているのですが、野際は結核で、鶴田は稼ぎがないから、彼女に大阪に帰って病気を治した方がいいというのだが、彼女はうんと言わない。
健さんは藤純子のことを「奥さん」と呼び、鶴田は野際のことを「とうさん」と呼ぶ。「父さん」じゃないんですよ、関西弁で「お嬢さん」のこと。手を伸ばせば肩に触れ、両腕で抱きしめることだって出来るのに、二組の男女の間にはそうは出来ない距離=一線がある、と。これが哀しいわけですよ。

野際陽子が素晴らしい。このひとが登場したとき、「あっ」と思った、思い出したわけです、この映画を確かに見たことがあると。そう、健さんの記憶も、かって同人誌に「純子の友」と命名したほどの大ファンであった純子さんの記憶も、きれいさっぱり消えていたのに、野際陽子は覚えてた。それほど素晴らしい。

この野際さんが、鶴田の「もう大阪にお帰りになった方が …」というと、男にすがりつき、そして、わたしたちはなにも悪いことはしていない、お父ちゃんがアホなんやッ! と叫ぶようにいうソノ声が凄い。わたし、ブルルと震えてしまいました。

一方、健さんと純子さん。純子さんの亭主はやくざのために家屋敷もろとも焼かれてしまい、なんだかんだあって、純子さん、元の芸者に戻ってしまう。健さんが迎えに行くと、純子さん、かなり酔っ払っていて、酒の力を借りて、今頃なにを言ってる、あなたはわたしが結婚すると言っても、止めなかったじゃないか、涙も見せてくれなかったじゃないかという。と、健さん、命を的にした暮らしをしている自分と一緒になったら、あなたは不幸になると思ったから …といい、そして、でも、今は泣いてますと、うつむいてた顔を上げると、両の目にはうっすらと涙のあとが …

これがマキノの名調子です。

目を見張らせるのは、こういった切ないラブシーンだけじゃありません。ラスト、お定まりの殴り込みになるのですが、これがいい。
基本的にわたしはチャンバラだの格闘シーンがあまり好きじゃない。だって結果は見えてるわけでしょ。健さんは死なないし、ゲスト出演の鶴田は、殺されるって。だから、延々そんなの見せられてもさあ、といつもは思うのだけれど、この映画はとても手際がいい。
鶴田は単身、天津の組に殴りこむんですが、その引き気味のカットと、藤純子を探して町中を歩く健さんのアップが、交互に、いわゆるカットバックされる。そのために余計な乱闘シーンが削られているわけです。
健さんは、純子さんが天津組に拉致されたことを知り、それで彼も殴りこみをかけるわけですが、その時の武器に火消しが日常使ってる「とび口」を持っていく。これがいい。ま、誰でも指摘するところですが。

健さんのこのときの立ち回りが凄い。凄い迫力。天津以下のやくざの三下たちも凄い緊張感を漲らせている。日本家屋特有の障子やふすまや柱を巧みに使った殺陣。決して広くない空間に男と刀と熱気ががひしめいている感じ。これ、やくざ映画のみならず、世界映画史に残る乱闘シーンではあるまいか。

健さんをほっとくわけにはいかないと、他の火消したちもとび口を持って、天津邸に向かうのですが、この時、寛美が半鐘を鳴らし、それを聞きつけた他の組の火消したちもわれ先にと天津邸へ。火消しの半纏を着た男たちが街角のあちらからこちらから溢れる水のように現れる。これもマキノの得意とするところ。
ああ、映画だなあとため息が出る。

そして大ラス。健さんが天津を切り捨てたところで、火消しの幹部の誰やらが、「警察を入れるんじゃねえ!」と大声で叫ぶ。そう、当然のように警官隊が押し寄せているわけです。その押し寄せてきた無粋な制服を着た警官隊を、粋でいなせな半纏軍団が通せんぼをしているんです。なんてカッコいいんだろう。

そう、その図が、当時の全共闘の学生たちと機動隊の対峙にダブッて、文芸座のオールナイトに来た学生諸君は歓声をあげた、と。これも思い出しました。

昔、面白いと思った映画が時を経て改めて見てみるとさほどのことはないと思うこともあれば、逆に、この映画のように、昔見た時はさほどでもなかった映画が、いま見るとその凄さを再認識して、自らの不明に恥じ入ることもある。
これ、素直に成長の証と考えていいんですよね、多分。

繰り返しますが、野際さん、凄い。彼女が登場すると画面が濡れる。そんな感じ。わがままなお嬢さんという役柄もあってるし。それこそ、自らの皮一枚、剥いで見せられた感じ。ショックです。





真似ようのないものの会得と実現のために - 2014.04.04 Fri

1日。学部の歓送迎会あり。これでお勤め関係の仕事、すべて終了。やれやれ。
教員会議やら学科の送別会やらに続く何度目かのスピーチを要請されて、読んだばかりの「疎外と叛逆 ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話」の中で、「小説家とは腐りかけた死肉をついばむ禿鷹のようなものだ」とマルケスが語っていて、自分もそういう風に思っている、云々という話をしたのだが、さっき読み返してみたら、これはジョサの言葉だったことが判明。またヤッチマッタ。

新しい住まいの伏見桃山は、わたしの好きなアーケード付きの商店街があり、丘があり川もあり、散歩にはことかかず、美味しい店も幾つか、とても住み心地のいいコンパクトな街だが、唯一の欠点は本屋がないこと。2軒あるにはあるけど、いわゆる町の本屋さんで、雑誌とマンガしか置いてない。
先日、芝居を見終わったあと、途方もないほどの空虚感に襲われ、栄養だ、栄養を摂らなきゃと、四条(でいいのかな?)のジュンク堂に駆け込んで、まとめて本を数冊買う。前述の本、前回触れた「剣の法」もそのとき買い求めたもの。

「疎外と …」は新刊だが、ふたりの対話は1967年になされたもののようだ。それに、ジョサの「マルケス論」と、同じくジョサへのインタヴューが収められている。これらもほぼ同時期に書かれ、話されている。
面白いので、以下、付箋をつけたところを拾い書きする。

マルケス「何よりまず頭に入れておかなければならないのは、文才は排他的なものなので、他の活動をすべて二の次にする覚悟で書くことに専念せねばならない、という点です」

ジョサ「心理の靄に包まれていた世界は、この作品(『大佐に手紙は来ない』)において地理と歴史を与えられ、その魂には血と肉と骨が授けられている」

インタヴュアー「幸せな人のほうがそうでない人より健全だと私は思うの……、それに、長い間幸せだった人、幸せに慣れた人は、なんと言うか、積極的で、楽天的で、心強いじゃない、違うかしら」(ジョサの作家は幸せになれると思うかという質問に応えて)

ジョサ「身の回りで起こっていることに正義の憤りを感じて、それを断罪、告発する必要性に駆られると、作家の内に潜む政治家が文学をダメにしてしまう。作品が生まれる前から、文学を道具に変えて、何かの役に立てようとしてしまうんだ」

マルケスの小説は、不思議な挿話が溢れかえっているが、前田氏の「剣の法」はとても不思議な本だ。
日本刀とは何かと問い、それが単なる武器としての用をはるかに超えているのはなぜかと問い、なぜ日本刀だけが闘うときに両手で持たれるのか、それは「刀身一如」という原理に叶うからで云々と、ここらへんまでは、多分多くのひとが関心をよせられるはずだが、そこからは、ただひたすら、彼が稽古と研究を重ねてきた新陰流の型の具体が書かれている。
うーん。剣道のケの字も知らないわたしのような輩にはついていくのがとても困難で。
でも、我慢して読み進めていくと、型の具体をイメージすることは出来ないが、書いている前田氏のその書いている現場が髣髴としてきて、なにかクスリでもやってる気分に。いや、もちろん、そんなもの実際にヤッタことはないのですが。

理解出来ないという苦痛が脳内麻薬の分泌を促したのだろうか?

恣意的な抜書きは、誤解を招きかねないが、氏はこんなことも書いておられる。

「一人でする動きは、真似だけで何とかごまかすこともできる。相手との関係を、流儀の「法」を通して創り出すことは、真似ようがない。稽古は、この真似ようのないものの会得と実現とを目指して、日々行われるのです。」

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