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2014-03

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慎んで、慣れないことは、大切なことです。 - 2014.03.31 Mon

先週の土曜日。ジャスタウエイ、ドバイで圧勝! 信じられない強さだったが、それ以上に信じられないのは、かの馬の馬主が知人であること。そして、さらにさらに信じられないのが、その馬主の暁くんが愛馬の勝利に歓喜し、絶世の美女と人目もはばからず、抱き合っていたこと。
続くシーマCでも、ジェンティルドンナが、並みいる世界の牡馬たちを、絶体絶命の状態に追い込まれながら、最後、力技でねじ伏せてしまった。改めてサンデーサイレンスの血の凄さを思い知る。
それにしても、誰なんだ、あの美女は。

映画「隣の芝は」。同じく土曜の深夜、WOWOWで放映。監督はこのところ快打連発絶好調の城定秀夫。
ジャンル的には、艶笑モノということになろうか。
音にすれば同じの柴田家と芝田家は、同じ分譲マンションのお隣さん。ともにアラサーの夫婦が住んでいる。
柴田・夫は、売れないモノ書きで、バリバリのキャリアウーマンである妻にアタマが上がらない。最近引っ越してきた芝田家。こっちは夫の方が妻をかえりみない会社人間で、専業主婦の妻はまるで卑女のように彼にかしずいている。

ある日、柴田家に宅配便が届く。開けてみると、卑猥な女性の下着。改めてあて先を確認すると、お隣さんだった。夫は慌てて、お隣さんにそれを届ける。これをきっかけに、柴田・夫と芝田・妻は親しく言葉を交わすようになる。ここら辺のくだりは、ありがちとは言え、とてもスマートな運びになっている。
それからアレやコレやあって、最後はなんと夫婦交換にというオチがつくのだが …
芝田・妻を演じる古川いおりがとてもいい。夫にかえりみられない日々の窮状を柴田・夫に訴える長台詞。淡々と語るのだが、辛さ、口惜しさがにじみ出る。恐ろしいほどにリアル。このシーンの、彼女の言葉をじっと聞いている柴田・夫を演じる吉岡睦雄もとてもいい。ま、このひとはダメ男と変態男をやらせたら天下一品の、知るひとぞ知る名優ですが。
この静かなシーンから、一転、激しくも切ないふたりのベッドシーンに切り替わる。この呼吸が見事。演出も冴えてる。そう、物語の終盤、「フニクリ・フニクラ」の曲にあわせて、二組の相手を替えた夫・妻がセックスに励んでる、その間抜けなおかしさとか。宅配便のおじさんを狂言回しに使ったシナリオも実に気がきいている。
肩の力は抜けているが、細部にいたるまで手抜きなし。登場人物わずか5人、上映時間60分の佳品だ。

同じく土曜日。唐ゼミ「パノラマプロジェクト」。作り手の方々は、劇=祝祭=イベントとお考えのようだ。
いったいどういう稽古をすると、こういう芝居が出来上がるのだろう? いや、そもそも稽古というものをどのように考えているのだろう?
わたしとの接点がなく、評すべき言葉も見つからないので、前田英樹氏の新刊「剣の法」から引用して感想に代えよう。

「際限のない暗愚の打ち合い」

「法」は「のり」と読み、原理を意味する。「暗愚」とは、法を知らないひと・状態をさすかと思われる。
因みに、今回のタイトルも同じ本からの借用。

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晴れのち雨のち … - 2014.03.24 Mon

土曜深夜。関テレの「うまんちゅ」に大和屋くん登場。懐かしや、10数年ぶりの再会。テレビの画面越しだけど。
髪が真っ白になっていて、一瞬目が点に。苦労してんだなあ。でも、天皇賞馬の馬主だもんなあ。
もう41歳。その話しぶりが若い頃と同じで、怪気炎。笑った。ジャスタウェイ、今週のドバイも勝っちゃうんだろうか?

なんてことがあったと思ったら、今日の昼過ぎ、思いがけぬ訃報が届く。卒業生が亡くなったという。まだ27,8ではなかったか。いくらなんでも若すぎるゾ。いくら非情なわたしでも、沈むときは沈む。

というところへ、その2時間後。これまた思わぬひとから電話。最初の劇団、斜光社の後半から次の劇団、秘法零番館の初期の公演ポスターを作ってもらっていたSくん。ことばを交わすのは、多分30数年ぶり。初めて会ったときは、まだ美大の学生だったが、幾つになったの? と聞いたら58で孫が3人もいるという。アチャー。

寺山修司の、多分「コメット・イケヤ」(ラジオドラマ)だったと思うけれど、新しい星が発見されたときには、どこかでひとつ星が消えてる、世界はプラスマイナスがゼロになるようになってる、というような台詞があったが …

「王になった男」。韓国映画。酒席でタイコ持ちみたいなことをやっていた下賎な男が、王に似ているというので影武者になって …というお話。どこといって新味はないが、シナリオがうまく書けてる。とりわけ脇役が。演出も手堅く、俳優達もお上手。王妃役の女優さん、役に相応しい高貴な香りを醸しだしている。どういうお方であろうか?
めまいを覚えるほど美しい!



わたしだって一応生身の人間 - 2014.03.17 Mon

木曜日、久しぶりに東京へ。嘘も隠しもない日本国民・竹内某であることを証明してくれる住基カードをさいたま市役所で受け取り、夜はMODEの芝居を、という算段をしていたのだが、時間の計算を間違えて、カード受け取れず。30分早い新幹線に乗っていればなんてことはなかったのに。またもう一度、高い交通費を払って足を運ばなければならない。なんてことだ!

MODE公演「遠い煙」(作 水沼健)。偽札を使うのを仕事としている男が主人公。偽札を作るのではなく、どうやって偽札を使うのか、というところにピントを合わせたのがこの戯曲のキモで、タイトル通り、ひとを煙に巻くような話だが、物語の全容が、あるいは、その狙いがはっきりしない。

男の住まいに押しかけ、帰れといっても帰らない女。そのうち、その女の姉と言う女もその部屋に居ついてしまい、なんだかんだあって、ある日、その<姉>の姿が見当たらないので、女に彼女はどうしたと聞くと、「姉は煙なんです」と答える …。
偽札を警察に届けると5万円貰えるというので、劇の終盤、<姉>は男に黙って偽札を警察に届けるのだが、警察曰く、鑑定したところ、これは偽札ではないという。本物・偽物の境界の危うさと、<姉>の存在の危うさとが重ねあわされているのだろう、しかし。
改めていうまでもなく、お金がお金であるためには、幻想が必要だ。即ち、この1万円札は、明日も明後日も、1年後も10年後も、一万円の価値を保持し続けるはずだ、という幻想が。その幻想がなければ、一万札はただの紙切れにすぎず、ただの紙切れであるという点では、本物も偽物もなんら変わることがない。両者の違いは、国の保証のあるなしだけだ。ということは、本当は偽札なのに、国が本物だといえば、それは本物のお札になるということだ。

舞台もまた幻想によって支えられている。舞台にいる男女が互いをお父さんと呼びお母さんと呼び合っていても、どんなお人好しでも、彼等が本物の夫婦とは思わない。<ふたりは夫婦>ということにしましょうという、作り手と観客の暗黙の了解がなければ、劇は成立しえない。どんな前衛劇であろうと、あるいは、映画や小説でも、もこの点では同じだ。

映画や小説と舞台が違うのは、俳優と言う生身の人間を媒介にするところだ。観客は生身の人間を目の当たりにしながら、いろんなことを感じ、あれこれと考えるのだ。
小説では、Kという記号で示される人物は存在しえても、舞台では存在しえない。俳優は記号ではなく、メシも食えば屁もひる、生身の人間だからだ。ひとは記号にはなれない。

この劇の限界ともいえる酷薄な事実の認識が希薄であるように思われた。
このことに関しては稿を改めて丁寧に書くつもりだが、ここではざっくり書いてしまう。
例えば、別役実氏の大半の戯曲に設定されている電信柱。あれは、まさに見る人を煙に巻くような話を、日常空間(=生身)につなぎとめるための装置以外ではないが、あれに相当する仕掛けが「遠い煙」には欠けている。<煙人間>という不可解な人間のリアリティを保証するためには、そうでない人間、それこそメシを食い屁をひる人間を登場させ、両者を対比させなければならない。そうしなければ、劇は、退屈な<文学>=文学もどきにしかならない。

前述したように、劇は俳優が生命線だといっても、俳優を見続けることに喜びを感じさせるためには、やはり台本の支えが必要だ。ただ彼・彼女がそこに立っているだけでわたし満足、なんて思わせるような俳優はそんなにいない。だから、ほころびが多い台本の芝居はキツイのだ。

あくる日の金曜日。本年度最後の教員会議があり、終了後、退官のご挨拶をと要請される。わたし以外におふたり。そのおふたりは、ともに涙ぐみながら、大学での思い出を話されたのだが、間に挟まれたわたしだけ、4月からの新しい生活の始まりにウキウキしてると話す。この大きな違いは! 
別に照れてたわけではない、思っていることを話しただけなのだが、多くの先生方は、なんと情のないヤツと思われたのではないか。ああ、やっぱりわたしは少数派なのだなあと、改めて確認したことでした。

土・日。少数派を自認しているわたしは、競馬でも穴馬を狙うのが常だ。人気のない馬から何点かを流す。だからたまにしか当たらない、ということは、たまには当たるということで。今週は2コしか的中しなかったけれど(的中率は10%に満たない)、ま、収支トントン。しかし、イロイロあって、疲れますな。

オープン戦、今日も登板、3日連投 - 2014.03.12 Wed

ようやく戦闘モードに。誰が? わたしです。闘う? 誰と? いや、ホンを書ける態勢に入りつつあるということですが。このブログを連日書くことで、ホンが書ける肩を作ってると、こういうことです。

まず、昨日書いたことの訂正とお詫びを。
田向正建ではなく、正しくは、正健でした。また、40代半ばで早世というのも間違いで、亡くなられたのは2010年、享年73歳。「とめてくれるな、おっ母さん」は、1969年公開。ウィキペディアで確認したのですが、そういえばそう、大河ドラマも2本書いてるし、朝ドラも、「雲のじゅうたん」以外にも、あの辰巳琢郎氏も出ていた、日本映画の創成期を描いた「ロマンス」も書いておられた。TVのシナリオライターとしてのデヴュー作「冬の旅」は、毎週見ていた上等なドラマだった。ああ、なんという数々のミステーク。すみません。
それにしても、わたしの記憶力のいい加減なこと。この映画で唯一記憶にあったのは、3人組が対立するやくざ達と乱闘になり、そこへ機動隊が割って入って、そこかしこで激しい殴り合い、そのバックに、当時流行ってたカルメン・マキの「時には母のない子のように」(作詞 寺山修司)の甘く切ないメロディが流れ、乱闘は果てしなく延々続く …というシーンだったのですが、これが! 機動隊は乱入しないし、乱闘に参加している人数も5、6人と実に地味で、なおかつ、フルコーラス流れているはずだった「時には …」も、ワンコーラス目の途中で切られてたという …
実にわたしはこの40年余、幻のシーンを追いかけてこの映画との再会を夢見ていたのだぁ!


ついでに。浪花千栄子は、多くの映画に出演していますが、「続悪名」のやくざの女親分が凄い。大体は、こすっからい、意地の悪い関西のあばはんというのがこのひとの役どころで、その代表作は「丼池」。この映画、当時の芸達者が勢ぞろいしていて、飽きさせない。ちょっと後味の悪い話ではありますが。あ、この映画は以前にも紹介したような。
で、「続悪名」の浪花千栄子。怖い、もの凄く怖い。主役の勝新太郎をボコボコにしてしまう。そのリアリティたるや、背筋も凍るほどで …!

そして、昨日書いたことの補足を。
改めて語ることでもないのだが。表現のリアリティは、現実の再現から生まれるものではない。池内氏の表現を借りれば、「1ミリそれた」ところのものに、わたしたちはリアリティを感じるのだ。
わたしたちは、例えば、ドキュメンタリーなどで見る、歳を重ねた漁師の深くしわが刻まれた横顔に接するとドキッとする。それは、日常ではあまり凝視したことのない顔だからだ。もちろん、ドラマなどではとんとお目にかからない顔。見慣れてないからドキッとして、ああ、年齢を重ねたひとの顔とはこういうもので、こういう顔こそ本来の人間の顔なのだと、改めて思うのではないか。
よく考えると、池内氏の心胆を寒からしめたのは、映像ではなく、ラジオから聞こえた声なのだ。それも、雑音混じりの。浪花千栄子も凄いが、池内氏も凄い。往年のプロ野球解説者小西得郎の表現を借りれば、「打ちも打ったり、取りも取ったり」である。ともに名手、ということ。

「1ミリそれる」とは、ナイフで1ミリ自分のからだを傷つける、ということだ。だから、真摯な俳優や歌い手や芸人は満身創痍で、行くところまで行くとその痛みに耐え切れず、酒やクスリに溺れてボロボロになってしまうのだ。プレスリーやマイケル・ジャクソンがいい例で。客は無責任だからもっともっとと囃し立てるから、それに応えようとして、もっともっとと傷口を増やし、深くし、そしてその挙句 ……

そうか。わたし(たち)が深くしわが刻まれた横顔にハッとするのは、それがまるで彫刻刀でえぐられたものであるかのように感じるからなのだ。

昨日は3・11。この日を忘れるなと言われても、そういうメディアが、忘れるように仕向けてるとしか思えない。いつか見た映像、何度も耳にしたことばを繰り返し繰り返し、洪水のように流し続ける。だから、ひとはもう分かったよ、と目を閉じ、耳を塞ぎ、そっぽを向いてしまうのだ。
そう。わたしたちは、いや、少なくともわたしは、カメラの前でマイクに向かってぺらぺら喋るひとの言葉なんか聞きたいと思わない。そういうひとが紛れもなく善い人であることは分かるけれど。深く心に傷をおってしまったひとは、そんなことはしない。だから、そういうひとのことばこそ聞きたいのだが、そういうひとからことばを引き出すのは面倒だから、メディアはあたりさわりのない善き人をカメラの前に立たせるのだ。
たった10秒の沈黙も許さない、沈黙を過剰に恐れるメディア。それがテレビ。

10年以上も前のこと。わたしが台本を書いたお芝居の通し稽古を見せてもらったあとのこと。演出家氏が率直な感想を聞きたいという。わたしはあとで演出家氏とふたりきりになったときに話しますと言ったのだが、氏は俳優達も聞きたがってるしという。本当に思ったことを言っていいですかと念を押すと、よほど芝居の出来に自信があったのだろう、構いませんよというので、あれやこれやと1時間半ほど、かなり厳しい感想を伝える。と、とりわけ厳しい感想になった主演女優さん、半べそ状態で、「ひとつでいいからわたしのよかったところも言って下さい。そうじゃないとわたし、舞台に立てません」という。わたし、しばし考え、そして、「申し訳ないけど、思い当たりません」と伝える。ま、優しさ、思うやりの欠片もない鬼みたいなヤツと思われたでしょうが、しょうがない、ほんとになにひとつなかったんだから。でも、その女優さん、今では映像に舞台に大活躍で、なにか賞を貰ったのではなかったか。
え、わたしの厳しいことばが糧になった? 全然。その時と同じ芝居をやってます。ま、テレビでしか見たことないですが。相変わらず口八丁手八丁の、俗にいうところの達者な演技を、要するに、みんなが安心できる見慣れた演技を自家薬籠中のものにして、ご披露しておられます、多分、なんの疑問もためらいもなく。きっと、うちの専攻の学生諸君も彼女のような演技を、目指すモデルにするんでしょうな。だって、多くのひとはそれがいいと支持してるのだもの。悪貨は良貨を駆逐する、ですか。ああ、メンド臭ェ。

太田省吾氏はいう、「舞台とは、(何事かを)なす場ではなく、(ひとして)ある場ではないか」と。乱暴に翻訳すれば、俳優は黙ってなにもせずそこに立ってろ、それがきみの仕事だ、ということですね。
賛成! それが出来ないあなたは俳優失格。




懐かしさに溺れつつ - 2014.03.12 Wed

研究室のお掃除もほぼ終了。やれやれ。
なんでこんなものがこんなところに、なんてものが幾つも出てきたが、田村信の「トラップ一族」もそのひとつ。
なんで研究室なんかにいつ持ち込んだのか。
田村信。笑えるということでは彼のマンガに勝るものなし。

わたしが20代半ばくらいだったろうか。多分、少年サンデーだと思うけれど、彼の「できんぼーい」の連載が始まって、一時期、これがわたしの最上級のエンターティンメントだった。
知らないひとは、吉本新喜劇のマンガ版だと思っていただければ。そう、いま絶好調のスッチーと吉田裕のやりとりを。
絵がうまい。ギャク自体はさほどのことはないんだけれど、そのリアクションがね、なにかと言えばみんなひっくり返る。それも尋常じゃない激しさで。そのときの足の感じがね、笑えるんですよ。それで、そんなぶっ飛びが延々続いたあと、登場人物たちは、「地獄じゃ、地獄じゃ」といいながらすごすごその混乱の極の場から立ち去ることになるんだけど、その時の足取り、手・指の感じから、その台詞が聞こえてくるんですよ。と書いても、まあ、よく分からんでしょうが。
いまはどうされているのか。わたしより幾つか若いはずですが。因みに、前述した「トラップ一族」は青年誌に発表されたものですが、「できんぼーい」とほとんど変わらない。で、家に帰る電車の中で読んでいたら、思わず声を出して笑ってしまって …。よく、いい俳優は背中で芝居が出来る、なんていいますが、田村まんがの登場人物は、後姿がいいのです。ま、背中というよりお尻が芝居する。プリプリほんとに動いてるような。田村信。天才なんだけど …


懐かしいと言えば、一週間ほど前だったか、「とめてくれるな、おっ母さん」を見る。監督は田向正建。公開されたのは多分、当時東大の学生だった橋本治が描いた学園祭のポスターが評判になり、そのキャッチコピーが「とめてくれるな、おっ母さん」で、だから、70年代初頭? この映画はこの年のわたしのベスト1で、もう一度見てみたい映画のわたしのナンバー1でもあったのだけれど。うーん、これがねえ。ずいぶん前にここで書いた「帰って来た狼」も、再会してみれば、え、この程度? で少なからずがっかりしたのだが、これもまた似たような感じで。

いや、そんなに詰まらなくはないんだけど。
船乗りになると言って故郷の北海道を飛び出した若者が主人公。いまはヨコハマで屯するチンピラだが、家には船乗りの友人に頼んで、彼が外国に行くたびに、旅先から自分の名前で、「いまはサンフランシスコにいて …」みたいな手紙を出してもらってる。
彼は同じチンピラ仲間と3人で共同生活をしている。彼等の夢は、正式なヤクザの組員になって、肩で風切るオアニイサンになること。その夢を叶えたかったらと、兄貴と慕うやくざ(財津一郎)に、対抗する組の幹部を殺れと命令されるが …
あれやこれやの手をひねり出して、彼等は標的の男を殺しはしないけどぼこぼこにし、晴れてやくざの組員に。
となった途端に組に警察の手が入り、幹部連中は全員ぱくられて、親分はあとはおまえたちに任せたみたいなことを言ってどこかへトンズラ。
一方、佐藤蛾次郎演じる主人公の実家が大変なことになってると知らせが入って、3人で北海道へ。と、驚いたことに、トンズラした親分が議員だと偽ってその村に入り込み、大掛かりな土地の買収をしていて、蛾次郎の家族も土地を奪われ、家を追われ、あろうことか可愛い妹は彼等にレイプされ、とひどいことに。
堪忍袋の緒が切れた蛾次郎は、単身、かっての親分がいる事務所に殴りこみ、で、殺されちゃう。と、残されたふたりが仇はとってやると殴りこみに行こうとするが、蛾次郎の母はバカな真似はよせ、と止める。と、ここでタイトルの「とめてくれるな、おっ母さん!」とミエをきって、かれらは飛び出していく、そして …

と、まあ、こんな話で。残されたふたりはともに、母親がいないという設定になっていて、蛾次郎の母親を自分の母親のように慕ってるなんてくだりもあって、この台詞が吐かれる場面はちょっと涙腺を刺激する。
だから、ホンはまあまあうまく書けているんだけど、演出がちょっと、という …。田向氏は多分、これが監督デヴュー作で、以後、監督はしてないはず。後に、テレビのシナリオライターに転じて、「雲のじゅうたん」なんてNHKの朝ドラの傑作をものしています。でも、40代半ばくらいで亡くなったのではなかったか。

「雲のじゅうたん」で忘れらない回があり。それは一回分15分まるまる記念写真を撮るシーンに費やすという大胆なことをしていて、わたしはこれに驚嘆し、自分の芝居で2回、パクってやりました。ひとつことを延々と繰り返す、というのが好きなんですよ、わたしは。だから、スッチーと吉田裕のコントがもうたまらんわけで。

懐かしついでに、もうひとつ。これも研究室の本棚から出てきた本で、池内紀氏の『地球の上に朝が来る』。
本の帯には「戦後、五球スーパーラジオできいた芸人たちのすばらしい笑芸の数々」とあります。
昨日は電車の中で吹き出してしまい、今日は電車の中でこれを読んでて泣きそうになってしまったという …
池内氏は、高名なカフカの研究者だが、この本は名著です。巻末に、「付録 懐かしの演芸館」として、千太・万吉やダイ・ラケの漫才が採録されているのが嬉しい。

「お父さんはお人好し」ー花菱アチャコと浪花千栄子という項に、昨日書いたことと関連することが書かれていてので、長くなるが以下に引用する。因みに、「お父さんはお人好し」とは、50年代半ばから10年ほどにわたって、NHKで放送されていた人気ラジオドラマだ。

子どもたちから生き方が古いとからかわれたとき、浪花千栄子演じる妻おちえは、こんな風に怒ったものだ。その口吻から息づかいまで、私はまざまざと覚えている。
「…ほんまにもう、あんたらはまあ三人がかりで、このお父さんやお母さんを、年がよって頭が古いといってバカにしなはんのか、ええ、ええ、バカにしとくんなはれ、なんぼなとバカにしとくんなはれ (以下略)」

氏はこの部分を、浪花千栄子は多分、台本どおりにしゃべったのにちがいないと推測した後、こう書く。

しかし私はほんの少しーほんの1ミリほどー台本からそれているような感じがした。何百万の母親たちが同じように感じるかもしれないが、だが世の母親たちは、決してこのように子どもたちが唖然とするほど突然いきり立ちはしないだろうし、またついぞこのような口吻や息づかいで話しもしないだろうと思わないでいられなかった。妻おちえがつながっていたのは、もしかすると天下の善人・藤本家のお母ちゃんではなく、精妙な雄弁術をもった一人の孤独な女・浪花千栄子ではあるまいか。

わたしが昨日書いた、「俳優なんか下手で結構」はここにつながる。
これまでにも繰り返し書いたことだが、多くのひとが、上手いと評するのは、滑らかに喋ることが出来て滑らかに動くことが出来る俳優だ。そして、それに、例えば、ロバート・デニーロのようにひと癖あれば名優とされるのだ。

それを滑らかと感じるのは、多分、見慣れているからだろう。見慣れているから安心できる、と。うん? ひとは安心を得ようとして劇場に出かけてるの?
池内氏はいう。浪花千栄子は、台本の指示するところから1ミリそれていて、だから、ハッとなにかを感じてしまったのだ、と。なにかとは? 浪花千栄子の孤独、即ち、彼女の<生き方>に触れてしまったように感じたのだ。

そう、誰でも考えそうな、やりそうな芝居で、安全地帯から1ミリもはみ出さない俳優を上手いというのなら、下手で結構だと、こういう話である。








誰もが野心的である必要はない、でも …… - 2014.03.10 Mon

佐村河内某が人品尊からざる男であることは誰もが思うところであろうが、記者会見で彼に、あなたは有名になりたかっただけだろう、という意味の暴言を発したフリーライターらしい男もまた、河内守氏と同系統の人間であろうことこともまた、誰しもが思うところだろう。公の場で、特に害を受けたわけてもない者が、他人に対してあんなに居丈高になれるのは、もちろん、守氏=悪人、わたし=正義のひとという図式に誰も異論はないはずだと思い込んでいるからだ。脇が甘いな。ひととしてはいかがなものかだが、物書きとしてもB級以下のひとだろう。

誰にだって少なからず名誉や名声に対する憧れがあり、それは上昇志向と呼ばれ、そのことを露にすれば野心家とも呼ばれる。大方の人間は野心家だが、しかし同時に、小心者でもあるから自らの野心実現のための行動は叶わず、成功者に憧れたり、妬んだりするだけだ。

ケン・ローチの「カルラの歌」を見る。1996年の作品。彼はわたしよりひと回りほど年上だから、60歳くらいに撮ったもの。でも、この瑞々しさはどうだ。

グラスゴーの市バスの運転手が主人公。上司と衝突を繰り返す面倒な男だが、気持ちが優しく、余計なことに首を突っ込む。まるでフーテンの寅みたいだ。彼には古い友人で結婚も間近らしい女性がいるのだが、彼のバスに無賃乗車した、謎めいた異国の女性を好きになってしまう。詳細には触れないのでよく分からないと思うけれど、それで彼は彼女の故郷ニカラグアに行くことになる。確か1980年代と時代設定をしていた。いまもニカラグアの政情は不安定だと思うけれど、この時代はCIAに後押しされた政府軍と革命軍との戦闘が繰り返されていた。いろいろありまして。イギリスの寅さんは、この国のこの状態が自分にはよく分からない、自分はなにをしていいか分からないといってグラスゴーに帰る。

彼が革命戦士にならないのがいい。彼にだってひとなみの野心があり、恋の成就のためなら婚約者を捨てるし、戦闘中の彼女の国にだって行く。でも、それ以上のことは出来ない。フツーの人間のここが限界なのだ。そのことを肯定するケン・ローチの目の低さがいい。

PCは便利な道具だ。こんなこともあんなこともやってくれるので、自分が希望したことはすべて実現しそうな妄想にかられる。S・M氏もきっとそんな妄想にかられたのだろう。ずっと昔は、身の回りに理不尽なことがあっても、多くのひとはこんなものだとあきらめていたし、また、わたしたちの知りうることも限られていて、というか、知りうるのは自分に似た人々に限られていたから、不幸なのは自分だけじゃないと自らを納得させやすかったのだとも言える。


「ゲンと不動明王」。監督は稲垣浩。主人公役の小柳徹が懐かしくつい見てしまった。50年代の作品(のはず)。
ゲンの家は貧乏寺で、母は病気で亡くなっており、家族は坊主の父と小学校高学年と思しき彼と、多分まだ学校には行っていない妹の3人。物語は、寺の鐘が台風かなにかで鐘吊り堂から落ちてしまい、元通りにしたいのだが、そうするためには結構お金がかかる、どうしたものかと、村の檀家たちが寺に集まって協議しているところから始まる。

野心的なところなどほとんどないが、なんだろう、ちゃんと映画になっている。ゲンが憧れている不動明王(演ずるは三船敏郎!)が彼の夢のなかに出てきて、泣くな、元気を出せと励ますのだが、その場面は一応特撮になっていて、そこは円谷英二が担当。でも、野心的というほどのこともない。

父に後妻が来ることになる。が、ゲンにとっては新しい母親になるはずの女性は、わけあって離婚、その時に婚家に残してきた男の子が忘れられないから、男の子供はいらないという。それで、ゲンは隣町の雑貨屋の家に預けられることになる。
それからあれこれありまして。ゲンは手に負えないということで、実家に返されることに。そこでまたあれこれありまして。新しい母親はある朝家を出て、実家に帰ってしまう。新しい母親になついていた妹がお母さんに会いたい、会いたいといってきかないので、ゲンは妹と一緒に母が住む町まで会いにいくことにする。どれくらい離れているのか定かではないのだが、バスで小一時間くらいはかかりそうなところへ、二人は歩いて行く。なぜ? お金がないから。

山間の道を歩いて行くところ、キアロスタミの「友だちの家はどこ?」みたい。ただ歩いているだけなのだが、「大丈夫か、きみたち」と声をかけたくなる。なにかとんでもないことが起きたらどうしようと、胸がしめつけられる。

結局、母は寺に帰ってくることになるのだが、ゲンは隣町のお寺に預けられることになる。ゲンはまるで犬や猫の仔のように、あっちに行かされこっちに戻されし、当然のように泣きじゃくったりもするのだが、先の不動明王が登場し、世の中にはお前なんかよりずっと可哀そうな子供はいっぱいいるんだ、とかいって、ゲンを雲の上に乗せ、そのかわいそうな子供たちを見せるのだ。それとこれとは話が違うぜと思うけれど、ゲンは納得して隣町のお寺に行くことにする。
ラストシーン。坊主に連れられ隣町に歩いて出かけるゲンと、戻ってきた母を乗せたバスがすれ違う。ともに相手には気づかず。妹は兄の見送りもそこそこに家に向かって走り出す。なぜか? 寺の鐘をついて、わたしはいつもここにいるよと知らせるために。この妹がチビの癖になんか色っぽい。ま、それはいいんですが。鐘に始まって鐘で終わる、と。

千葉の柏の通り魔。被害にあったひとはもちろん不幸だが、容疑者の彼もなんだか可哀そうだな。
自分は他人とうまくコミュニケーションがとれないという自覚をもち、それでネットにはまって。チャットだのラインだのというのがもうひとつ理解できてないのだが、とにかくそこで、誇大妄想的なことを吹きまくっていた、と。それで面倒なヤツと思われて、みんなに無視され、孤立感がいっそうつのって犯行に ……

昔はね、それこそゲンみたいに、多少の理不尽は、みんなこんなもんでしょと受け入れてたんですよ。不満があっても表現手段がなかったから黙ってた。そう、大方の不幸なんてものは黙ってりゃ、そのうち後になって、ああ、あんなこともあったなあ、みたいなことで忘れてしまえるんですよ。
でも、ネットなんて便利なツールが出来てしまったもんだから、不満も孤立感も、書けば書くほどつのってしまう、と。

「ゲンと ……」には「カルラの歌」にあったような、野心も冒険もないけれど、監督の稲垣浩には映画を「映画」に出来る確かな腕=技があったのだが、先日見た芝居には、残念ながらそれがなく。野心も冒険も腕も技もない、そんなものお金をとっていいのかな、いや、多くの客はそこそこ楽しんでたみたいだから、わたしなんぞがガタガタいう筋合いでもないのかな、いや、でもなあ、作ってる人々、満更知らない連中でもないから、言うべきことは言っておいた方が …

MONOの新作。とにかく台本がいけない。素人さん並み。冒頭。闇の中から男と女の声が聞こえる。あとで、そこは屋根裏だということが分かり、お話は、この屋根裏から下の部屋を覗いている者たちのあれやこれやなのだが。
先の男女、屋根裏がなにか怪しいということで調査に来たのだが、途中で持ってきた懐中電灯をなくしてしまって、だから、真っ暗という設定。バカな。来た事もない、危なそうなところに懐中電灯を持たずに来ますか? 緊急事態でもなんでもないのにですよ。引返すでしょ、フツー。で、別の懐中電灯を用意するでしょ、フツー。

重箱の隅を突っつくようなことを言ってると思われるかもしれないが、こういう小さなことへの細心の注意が嘘を本当らしく見せるのです。作者はそれくらい分かり過ぎるくらい分かっているはずですが、でも、一事が万事で、この手のそんなバカなとあきれ返るような出来事の羅列なんですよ、この芝居。

いいですよ、バカみたいな話でも。でもね、例えば冒頭のシーン。客席からはなにも見えないけど、声だけ聞こえる、そういうところから始めたいと思った。じゃ、どうするか。もっと考えないといけないわけでしょ、出来れば奇想天外なことを。いや、そこまでいかなくても、わたしみたいに引返せという声を封じる一手を打たないと。女の子の着ているものが釘かなんかに引っかかって動けない、とか。脱げよとか男が言って、女はわたしの裸を見ようと思ってるんでしょ、みたいなことを言って、とか。
俳優たちもねえ。別のところで昨日も見た一昨日も見た、3年前にも10年前にも ……というような、やってる自分たちにとってもさほどの驚きもないような演技の連発。一昨日だったか、ドラボの芝居の感想を書いたいくつかをネットで読んでたら、中に、もっとうまい俳優でやったらもっと面白いのに ……というのが幾つかあったが、そのひとたちの上手い下手の基準がどんなものか、もちろんわたしの知るところではないが、もし仮にMONOの芝居の出演者たちを上手い部類に入れているとしたら、わたしは俳優なんか下手で結構、と思うのだ。

下手でいいけど、無謀な冒険家でありたいな、と。










酔って候 - 2014.03.04 Tue

「一週間のご無沙汰でした」とは、往年のTV番組「ロッテ歌のアルバム」の司会・玉置宏の番組冒頭の決まり台詞であるが。このブログ、書かずにいたのが一ヶ月足らずだというのに、もう何年も経ってしまったような。

昔から物忘れが著しい子供だった。いつも忘れ物をして家に取りに帰っていた。それは多分、せっかちだからだ。せっかちだから、すべき確認を怠り、結果、忘れ物をすると、こういうことなのだ。せっかちは短気にもつながっていて、短気は飽きっぽいにつながっている。

このブログを書かずにいたのは、ヒジョーに忙しかったからで、しかし、その忙しさは、前述した<物忘れ>に起因している。一日の四分の一は探し物をしているのだ。ま、新しい家に引っ越してまだ不慣れのためもあるのだろうが、この探し物の時間を半分に削ることが出来れば、もう少しゆったり生活が ……

新しい住まい。知らない土地なのでもの珍しく、毎朝1時間くらい散歩している。近所に酒蔵や名所旧跡があって飽きない。が。知らず知らず目にとまってしまうのは、石屋の墓石の値段とか、介護の文字。そのたびに、われながら「うーん」と唸ってしまう。

生まれつき物忘れが過ぎる上に、年齢からくる記憶力の減退。それを考えると恐ろしいような面白いような。
そう、ミラン・クンデラもいうように、「ひとは誰も子供」なのだ。改めて断るまでもなく、3歳の子供であれ、60を超えた爺であれ、現在の年齢で生きるのは、初めてなのだ。だから、恐ろしいけど面白いのだ。

このブログは多分、忘備録として今後ますます重要なものになるだろう。もちろんわたし自身にとってであるが。

というわけで。この間に起きた忘れないでおきたい幾つかのことについて、簡単に記そう。

もう先々週になるのか。金曜の朝、土橋くんと丹波篠山へ。土橋くんは、関西では稀な知性ある劇作家・演出家だが、公演がない時は、家業の砥石屋の仕事をしている。お父さんが四代目で彼が継げばもちろん五代目。砥石になる石を山から掘り出し、製品にし、それを販売しているのは、いまでは土橋くんの家だけらしい。というか、天然ものの砥石の需要が激減し、そもそも石の掘り出し自体、もうほとんどされてないらしい。
だから土橋くんは、世界にただひとりのトイシスト(?)作家なのだ。

前置きが長くなったが。土橋くんの仕事場でもある彼の実家は京都の亀岡にあり、そこに砥石を買いに来ている田中さんというギター職人の方の工房が丹波篠山にあり、10月にA級Mで上演予定の「Moon Guitar」の取材でそこにお邪魔したと、こういう話です。

ここでも繰り返し書いているように、わたしは人見知りなので、知らないひとと会うのはどうも ……で、おまけに山奥に籠もって仕事をしている「ギター職人」なら、気難しい人間に決まってるし、と思えばどうにも気が重かったが、同行してくれた土橋くんのお父さんが絶好調!なひとで、少し気分が楽になり、田中さんもまあ実にフランクなひとで、仕事ぶりの実際もわざわざ見せてくれたのだった。取材後に食べたぼたん鍋の美味しさも格別で、実に収穫の多い小旅行となったが、久しぶりに酔って吐いてしまった。いや、酒にではなく車に。
ダメなんですよ、車が。それで免許がなく、だから、国民として認知されず、この間も銀行で ……やめておこう、長くなるから。でも、一言だけ。
先日、紀陽銀行で。身分証明を求められ、健康保険証を見せたら、顔写真がないからダメだと言われ、ならばと、顔写真つきの大学の身分証明書を見せたら、なんと国公立の大学じゃないからとキッパリ言われてしまって。おいおい、紀陽銀行みたいなド・マイナーな地方銀行員が言っていいのか、そんなことをッ!

嫌なことは忘れて。
まだ書いてもいない前にこんなことを言うのもナンダが。今度の作品はうまくいきそうな気がする。田中さんにお会いできたのも予想だにしなかった幸運だし、劇の重要な人物として中国残留孤児2世が登場するのだが、こちらの方も、卒業生の谷口さんが中国人男性と結婚して、いまは彼女の実家で暮らしている。中国(人)に関する情報収集もバッチリできそうなのだ。

まだまだ書いておくべきことがあったはずだが ……。長くなったし疲れもしたから今日のところはこの辺で。

しかし、研究室の散乱振りは!! 今月中に片付けねばならず、ブログなんか書いてる場合じゃないのだが ……

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