topimage

2013-11

スポンサーサイト - --.--.-- --

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

公演のお知らせ - 2013.11.28 Thu

何回か前に、上演不許可になった云々と書きました、勤務する大学でわたしが担当している実習授業の発表会が迫っています。

演目 「いちご大福姫Smart」
日時 12月12日(木)~15日(日)
     木・金は、19:30開演  土・日は、14:00開演  開場は開演の20分前
場所 近畿大学本部キャンパス10号館8階 演劇実習室(キャパ50~60人)

入場無料。上演時間は、75分程度かと思われます。

台本は、昨年ドラボで上演した「いちご大福姫」から3本をセレクトし、それに、20年ほど前にカメレオン会議で上演した、中島みゆきの歌曲に誘われて作られた短編集「たしあたま」の中から1本を加えて構成したもの。詳細は以下の通り。

①福谷圭祐・作「大福、膨れ上がる」
②三浦由季乃・作「鈴木和子の場合は」
③竹内銃一郎・作「子守歌」
④水沼 健・作「火花」

タイトルに新たにつけ加えられたSmartには、当初予定していた演目の上演を不許可した<アタマのいい>著者の代理人に対する嫌味・皮肉が込められています。OH、なんて執念深い!


わたしの演出予定はしばらくないので、お時間と興味がありましたら、是非ご来場下さい。

あ、時々思い出したように稽古場に顔を出して、二つ三つダメ出しをしてみたいな、軽い演出はしておりませんから。念のため。竹内はいつだってどこだって全力勝負です。なーんてね。





 
    
スポンサーサイト

闘いは世界を変えるためでなく …… - 2013.11.18 Mon

韓国映画「トガニ」。モデルになった事件があり、その事件について書いた小説が原作となっているらしいのだが。

ひどい話だ。視聴覚に障害を持った子供を預かっている学校の校長と教員が、日常的に子供たちをレイプしていて、その事実を子供が警察に訴えても、校長から金を貰ってる彼らは、握りつぶしてしまう。
校長は町の名士で、敬虔なキリスト教徒として知られているひとで …
そんな学校へ、ソウルから美術の教師が赴任してきて、その事実を知り、人権センターの女性と協力して、この事実を訴え、裁判に持ち込むが ……
というお話。

メッセージ性がきわめて強い映画だが、そういう社会性を抜きにしても(?)、映画としてとてもうまく出来てる。とてつもなく重い話を、緊迫感に変えて、その重さから観客の目を逸らさせない。
こんな話を実際に目の当たりにしたら、生きているのが嫌になるようなものだが、しかし、これはあくまでも映画でフィクション。このことを確認出来るから、わたし(たち)は見続けることが出来るのだ。

映画的な仕掛け。
例えば、最低な校長には双子の弟がいて(学校の事務方のトップ)、同じ俳優が演じているのだが、この鏡像関係がとても映画的だ。ふたりは校長室でそっくりに並んでいる。笑ってしまう。
裁判で、きみを犯したのはどっちだと弁護人が女の子に問うと、ということはつまり、校長が犯人ではない可能性もあると言いたいのだが、彼女は手話で、ふたりを前に、「このことを誰かに話したら、おまえを殺す」と話す。それは彼女が犯されるたびに、校長が彼女に手話で語ったことなのだ。で、彼女の手話に思わず反応してしまった方が校長だ、と指差す。双子という設定をうまく使ってる。

発音しないことが語る豊穣さ。前にここにも書いたことがあるような気もするが、
ずいぶん昔、夜遅い電車の中で、聾唖と思われる若い男女が手話でなにごとかを語っていた、その時の、ふたりの間に流れる空気の濃さ、親密さはあまり見たことのないもので、よく出来た映画の一場面を見たようで、わたしはものすごく感動してしまったのだ。

映画の台詞は最小にすべし。

どこまでが事実で、どこがフィクションなのかは分からない。が、繰り返される逆転劇といい、悪役の造形といい、いわゆる商業映画・大衆映画の王道も踏んでいて、映画監督としてのしたたかさも感じられ好ましい。

もっとも好きな場面。やはり裁判シーン。友達と別れたあと、すぐに悲鳴が聞こえ、行ってみると友達が校長に ……という女の子の証言に、被告の弁護人が、聾唖なのに聞こえたとはおかしくないかと問う。と、時々微かに聞こえることがあるのだと答えると、じゃ、と言ってカセットを取り出し、聴こえたら手を上げろと言って音楽を流す。裁判所に音楽が流れる。韓国の流行歌みたいな。と、ヴォリュームが落ち、ノイズまじりにその音楽が変わって …、すると、彼女がゆっくりと手を上げる。弁護人がスイッチを切る。と、彼女は手をゆっくり下ろす。また音楽を流す。と、彼女はゆっくり ……
こういうのを映画的な、サスペンスフルな時間というのだ。
聾唖者を演じた子供たちがとてもいい。いずれも本物かと思わせる好演。


裁判の結果、話の結末の詳細はここでは書かないが、ラストで、人権センターの若い女性が、いまは遠くに住んでいる(ソウル?)元美術教師の男にあてた手紙にこんな言葉を書く。

わたしたちの闘いは、世界を変えるためではなく、わたしたちが世界に変えられないためなのだ、と。

泣いちゃいました。


半グレ - 2013.11.13 Wed

先週土曜、A級ミッシングリンクの「あの町から遠く離れて」を見る。
舞台は海上を航行中の船室。離婚協議中の夫婦が田舎の島から大阪(?)へ帰る途中で船が故障。そこでのあれこれ。乗客のひとりが構想中の映画の一部が挿入されたり、時間が唐突に過去や一年後に飛んだり。
来年5月の公演を前提としてのトライアウト(試演?)というためであろう、台本レベルでいささか不明な点もあったが、いつものように明晰な演出力で、緊密な舞台となっていた。
土橋演出の明晰さとは、人物間の、ひととものとの、距離測定が理に叶っていて、なおかつ美しい、このことに尽きるように思われる。逆に、見ていて腹立たしくなる芝居は、この距離測定が出鱈目、というか、そんなことにはまったく無頓着なのだ。

溝口敦「溶けていく暴力団」も、論理が明晰で読ませる。同じくアウトサイダーの世界の現在を描いた須田慎一郎の本(タイトル忘却の彼方)とは月とスッポン。このひと、テレビでもなにを言ってるのかさっぱり分からないことを言ってる。なんで重用されているのか理解に苦しむ。同様の御仁、演出家にもいっぱいいますが。

溝口によれば、警察の締め上げで山口組以下、やくざはみんなもう青息吐息だという。早晩、この国からやくざはいなくなるのでは、とも。そんな事実と今後の推測をいろんなデーターを示しながら明らかにしていく。
よく知られているように、やくざ組織は擬似家族になっている。親分・子分は、むろん、親的存在、子供的存在という意味で、つまり、本当の家族をなんらかの事情で失ってしまった者たちが、やくざ組織に本当の家族(=保護・管理体)を求めて入るのだ。が、最近の若者たちはなによりその擬似家族関係がうっとおしいのだ。だから、先輩・後輩関係以上ではなく、規律もやくざよりはゆるい「半グレ」へと人材が流れているとのこと。
最近よく聞く「半グレ」のグレとは、愚連隊、グレてるのグレともうひとつ、一般市民でもなく、かといってやくざでもない、グレーゾーンにいるという意味のグレでもあるらしく、これは溝口が発信元らしい。

家族=血縁・地縁から自由になりたいという人々の志向と資本主義の進化はパラレルだとは佐伯啓思等が繰り返し語っているところだが、半グレの主な生業が、経済活動(オレオレ詐欺等)であるらしいのは、当然といえば当然の帰結なのだ。
肉体的な暴力が幅を利かせる時代はもう終わったのである。

ところで、なんでこの手の本を読んでいるのかというと、前述のA級の来年10月公演の台本をわたしが書くことになり、そのための資料なのだ。
以下が、その台本の目下のあらまし。

「Moon guitar」


【登場人物】
 角中タクミ ……ギター職人、妻子あり。娘の名はまお。
   あずさ ……タクミの妻、信用金庫で働いている。
 松本カイジ ……あずさの兄、現在無職。
  マオ   ……本名 富岡タケオ 中華料理店オーナー
  テイ   ……謎の中国人
 長尾みどり ……中国系商社勤務のOL
 納富   ……タクミのかかりつけの医師

【物語】
ギター職人の角中の店に、マオが楽器の修理の依頼に来る。月琴(=moon guitar)という中国の古い楽器らしい。マオは、闇社会とつながっているのではと噂されている人物。最初はつれなく応対する角中だったが、月琴に興味を惹かれ、その修理の仕事を引き受ける。
別の日。あずさをたずねて兄のカイジがやってくる。カイジは時々顔を出しては、あずさに金をせびるのだが、今回は金額の桁が違う。3千万円ほど用立ててほしいというのだ。もちろん、そんな大金があろうはずはないが、この二週間の間に3千万作らないと殺される、という。
みどりが、先日、修理を依頼したと言って、月琴を持って現れる。彼女は時々あずさの勤務先にやってくる顔見知りだった。
別の日。角中は医師の納富のところにいる。癌が進行していて、はっきりしたことは言えないが、余命は半年ないかもしれない、と告げられる。
別の日。マオが角中の家を訪ねている。あずさも一緒に歓談。マオと角中は、あずさが嫉妬するほど親しくなっている。そこへ、カイジが現れ、例の件にメドは立ったかとあずさに聞く。マオは、自分がいるべきではないだろうと、家を出て行く。角中も、あずさにふたりだけにしてほしいと言われ、出ていく。ふたりだけになると、カイジは、角中にお前の秘密をバラしていいのかとあずさを脅す。
この秘密が公になると、お前も角中も社会的に抹殺されるゾ、と。
別の日。角中は、相談したいことがあるとマオに呼び出される。マオは残留孤児の二世であること等、マオの過去・現在が語られる。テイが現れる。テイは角中に、殺しを依頼する。殺しの相手は、みどり。彼女は中国と日本の二重スパイで、某筋から殺しの依頼をされたが、自分が殺したことが判明すると、政治問題に発展する恐れがあるので、縁もゆかりもない、素人の角中に頼みたいと言う。
なぜ、俺に? と更に問う角中に、金が入り用なのだろう、自分が死んだあとの家族のことが心配だろう、という。彼が余命いくばくもないことを知っているのだ。そして代わりに、自分たちは、カイジを殺してやる、と。つまり、完全犯罪を期した交換殺人の提案なのだ。
 そして ……

お気づきの方はお気づきのように、これは、以前にここにも書いたヴェンダースの映画「アメリカの友人」の換骨奪胎版です。

先に書いたように、公演は来年の10月でまだ一年近くあるのに、もう書いているこのマジメさ!

唐(十郎)さんには様々な伝説があるが、まだ若いころ、出版社等から原稿依頼があり、当然のように締切はと担当者が言いかけると、いますぐに取りに来てくれと言ったという。
多分、短いものに限った話だろうが、つまり、そっちが原稿とりに来るまでにかかる時間内に書き上げた、ということなのだ。

そんな神業はわたしには無理だけれど、来年4月からは無職になるので、食っていくためには、原稿を頼まれたらすぐに書き出し終わらせて、次の仕事に備えなければと思っているのである。









再会の夜 - 2013.11.05 Tue

3日夜、梅田。10年前に卒業した諸君の同窓会に参加。関西圏外在住者も多く、集まっても10名ほどだろうと思っていたら、東京から、佐賀から、岐阜から、福井から、徳島から等々、20余名参加。卒業生の半分近くだ。というか、幹事を引き受けた諸君の仕事が細かく、中退者にも案内を出したらしくて、そんな人々も集まったのだ。そのことにまず感激した。
わたしには大学時代の友人がひとりもいない。ま、ほとんど学校に行ってなかったせいもあるのですが。
当然のように、そんな、同窓会の案内なぞくるはずもなく。ま、案内されても行きませんが。だって、誰も知らんし。

この学年は、わたしが教師になった最初の学生、つまり、一緒に入学した学生たちなので、他の学生たちに比べて特別の思い入れがあり、いまでも時々、会ったりメールを取り交わす者も何人かいる。
参加者の半分くらいは卒業以来、10年ぶりの再会。女の子たちに比べて、男の子たちはずいぶん変わった。多分、18,9の男の子はほとんど子供で、だから、10年の歳月を経て、歳相応の顔つき、体つきになったのだろう。
みんなの近況を聞くと、男女を問わず、ちゃんと仕事をしていて、ちゃんと家庭を持っていて、もちろん、未婚者もいたけれど、みんなちゃんと生きてる。そのことにも感激した。みんな偉いなあと。

赴任した年の夏休み。前期の最後の授業で、「いま東京で芝居の稽古をしてるから、興味のあるひとは見に来てもいい。泊まるとこがなければウチに泊まってもいい」といったら、2,3人で3組ほど、時期をずらしてやってきた。
なんでみんな一緒に来なかったかというと、3人くらいしか泊められないとわたしが言ったからだ。
その素直さ、そして遠路はるばる、結果10人近くがやってきたその感じ、なんだか「二十四の瞳」みたいだと、その時思った。

「二十四の瞳」。壺井栄の原作を木下恵介が映画化。小豆島の小さな小学校に高峰秀子演ずる若い教師が赴任する。新任で勝手が分からない上に、子供たちがちっとも言うことを聞かない。苦闘の日々だ。ある日、心労が重なったための病気だか、怪我だかのため学校を休む。と、彼女の住む家に、山をひとつ越えて子供たちがお見舞いにくる。この日以来、教師と子供たちの距離は一気に縮まる。
数年後、戦争が始まって、男の子たちは志願して戦争に出かける。戦争が終わって数年後。教師が定年で退職することになり、教え子たちが先生を招いて同窓会を開くことになる。
懐かしい、涙涙の再会。教え子たちの幾人かは戦争で亡くなっている。目が見えなくなったものもいる。教師の息子も戦死している。そんなこんなが明らかにされて、観客はみな滂沱の涙を、と、こういう映画。
反発したくなるところ多々ある映画ですが、ま、見れば泣いちゃうんです、わたしみたいなヒネクレ者でも。

この夜もまた「二十四の瞳」を想起する。もちろん、誰も戦争など体験してないけれど、生きていくことが大変なのはどんな時代だって変わりない。
「生きてるだけでマル儲け」という、さんま大先生の名言がことのほか身にしみたことでした。

話変わって。でも少しだけ前の話と関係がある。
映画「コンフィデンスマン ある詐欺師の男」。なんとも投げやりなタイトルだが、うまく出来てる。とりわけシナリオが素晴らしい。物語の隅々にまで神経が行き届いている。見事な職人仕事。

かって腕利きの詐欺師だった男が、25年ぶりにシャバに出てきたところから物語は始まる。
詐欺ったって、彼が手がけていたのは大掛かりなもので、相手は大体ヤバイ筋。彼がなぜ25年間もムショ暮らしをしていたのかというと、ヤバイ筋相手の詐欺が途中で発覚し、そのヤバイ筋の親玉に、「お前の選択肢はふたつ。お前の目の前にいるお前の相棒を殺すか、俺に殺されるかだ」と言われ、相棒を殺したからだ。
25年は長い。親しい友人、愛人、みんな死んでるか、どこかに消えてしまったか。
殺した相棒の息子が会いたいと言って来る。男は息子の父親を殺した経緯を話す。息子は一応の理解を示し、そして父を殺した償いとして、いま自分が計画している大掛かりな詐欺を手伝ってほしいという。そして …
このふたりに若い女がからんでナンダカンダ思わぬ展開になるのですが、これ以上は書かない。

詐欺師の映画なのに、実際に詐欺が始まるのは90数分の映画が60分ほど過ぎたあたりから。この按配に興味を惹かれた。タイトルに反してこれは「詐欺師の映画」ではないのです。
じゃ、なに? それもここでは明らかにしない方がよいと思います。因みに、原題は「サマリア人」。
傑作ではないけれど、いわゆる佳品。とわたしは思ったのだけれど、さっきネットで評判・感想を確認したら、これがみな意外なほどの低評価。

こういう人々、いったいどんな映画を良しとするのか。分かりませんネエ。

NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

公式ホームページ

お客さま

プロフィール

初代管理人

Author:初代管理人
写真は竹内銃一郎
(ウィキペディアの解説ページ)

mixiコミュニティ

カテゴリ

竹内銃一郎のドラボノ介 無頼控 (255)
公演情報 (9)
稽古場日記 (591)

最新記事

最新トラックバック

月別アーカイブ

最新コメント

検索フォーム

リンク

このブログをリンクに追加する

QRコード

QRコード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。