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2013-09

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なんと形容すれば! - 2013.09.26 Thu

録画していた「ルアーブルの靴磨き」を見る。監督のアキ・カリウスマキはわたしが敬愛する映画監督のひとり。彼の映画の大半を見ている。

最初に見たのは多分「コントラクトキラー」だ。その時点では、名も知らぬ監督の、それもフィンランド映画なぞ、なぜ見ようと思ったのか。誰かに薦められたのか、それとも、主演があのジャン・ピエール・レオだったからか。まことにおかしな映画だった。

理不尽なリストラにあうレオ。外人だからという理由で対象になったのだ。職もない、金もない、頼るひともいないというわけで、自殺を試みるが、なかなか思うようにいかない。この件が笑わせる。
ガス自殺を思いつき、栓をひねると、シューとガスが吹き出る音。それがものの数秒で、音が消える。
と、次のカットが、ガス会社のストライキを報じる新聞のカット。つまり、ストのためにガスが止まり、自殺できなかったというわけだが、その新聞の片隅に、最近、殺し屋集団が暗躍しているという記事。それに惹かれたレオは、殺し屋の事務所(!)に行って、自分を殺してくれと依頼して ……というお話。

しつこいようだが、日本版「許されざる者」に徹底的に欠けていたのは、このスピード感だ。

スピード感という表現は微妙だ。だって、全然走ってる感はないのだから。

昨日、専攻の学生の「古典芸能」の授業発表を見た。今年は狂言。決して多くない稽古時間だったはずだが、みんなの懸命さが伝わってきて、好感をもった。
最後に、指導の茂山千三郎さんが弟子の鈴木さんと「柿山伏」をやってくれたのだが、ひとつの発見があった。いうまでもなく狂言は喜劇である。面白くなくてはいけない。ひとつひとつの所作が、たとえば歌舞伎の見得のように、決めたらマズイのだ。二枚目になってしまう。だから、決めているようで、そこにゆるみというのかたわみというのか、微妙な曲線が描かれなければならないのではないか、と。

アキ・カリススマキの映画は、どれも似ている。登場人物のほとんどは、社会の下の方でうごめいてる人々。あまり喋らない。おいしそうなものは食わない。美男美女は登場しない。
シーンの始まりの大半は、静止画風。カラー、モノクロを問わず、ホーと思わず吐息がもれてしまいそうな色彩感覚。ここ以外にないというタイミングで、選び抜かれた絶妙な音楽が流れる。そしてなにより、生きていることの惨めさが描かれているはずなのに、笑える、等々。

数年ぶりだと思われるこの新作は、おそらく彼の最高傑作ではないか。

タイトル通り、主人公は、港町ルアーブルで、ベトナム人の青年とふたりで、靴磨きをしている老人。家には妻と犬が一匹。当然のように貧しい。ある日、港で、海から顔を覗かせた黒人の少年と出会う。老人は彼に、今日の昼食にと用意していたパンを差し出す。と、少年は海に潜ってしまう。振り返ると、警部(?)が立っていて、彼に、密入国した黒人の少年を見なかったかと問われる。老人が知らないといって立ち去ろうとすると、警部は、「忘れ物」と、老人が少年のために置いておいたパンを指差す。

子供の頃から、洋画に比べて日本映画はどうして台詞が多いんだろうと、それが不思議だった。
またまた「許されざる者」のリメイク版。くどくど台詞で説明した挙句、顔でもまた説明芝居をするからもう! おまけに泣くんだ、よく。柄本さんまで、ケンと別れの場面で顔をくしゃくしゃにして泣いていた。もちろん、監督の指示なんだろうが。わたし、恥ずかしくて正視出来ませんでした。

それにひきかえ「ルアーブル」。台詞が極端に少なく、でもなにが起きてるのか、起ころうとしているのか、とてもよく分かる。

スマートかつ野蛮かつ大胆な省略を次々と繰り出す。

黒人の少年が老人の家に訪ねてくることも、彼が老人の家に匿われることも、そして、近所の人々がそれに献身的に協力することも、すべてその間の事情・段取りは省略されていて、結果だけがボンと投げ出されるのだ。その小気味よさ。

老人は少年をなんとか母親が待ってるイギリスに送り届けたいと思い、奔走する。明らかに警察にマークされているのに、捕まったら罪に問われることは分かっているのに、彼がなぜそこまでするのか。分からない。台詞で説明してくれないし。わたしのような不人情な男には到底理解しがたいことだけれど、世界のどこかにはこういう、無償の行為を厭わない人々がいるはずだと思う。思わせる。この映画にはそんな力があるのだ。中盤あたり、話の成り行きが見えかけた頃から、もうわたしは胸いっぱいになってしまったのだ。

決めない、決まらない。常にゆるみ・たゆみを感じさせる、どこか間が抜けているカットとそして物語の流れ。この映画を優しさとか温かいとかほのぼのなどと形容してはいけない気がする。そんなあまちゃんな映画ではないのだ。

この映画の凄みを、なんと形容すればいいのだろう ……?





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許されざる … - 2013.09.19 Thu

「許されざる者」のリメーク版を見る。
出演者たちの公開前の、この作品がいかに素晴らしいか、などという話はもちろん宣伝のためで、だから、否定的な言葉が出るはずがない。分かってはいたけれど、世界のケン・ワタナベとか、まんざらお馬鹿でもなさそうな佐藤浩市等々から、映画に関する大賛辞を聞かされれば、ほんとに? と、首をかしげつつ、わたしのようなスレッカラシ爺だって映画館に足を運んでしまうわけですよ。

監督はあの「悪人」を撮ったひと。わたしは以前にこのブログでも書いたが、これはしょうもない映画だと思ったが、ケン・ワタナベは、この映画に出演していた柄本(明)さんや麒麟女史から、素晴らしい監督と聞いて「許されざる者」への出演を決めたのだという。彼らがほんとにそう言ったのだとしたら、はっきり書く、柄本さんも麒麟女史もボケてしまったのではないか、と。

別にオリジナルと違うからどうこう言うのではない。そんな義理立てはいらないのだ。

わたしが書いた戯曲を、わたし以外のひとが演出をする。むろん、わたしにはわたしなりのイメージがあって書いたわけだが、わたしのイメージと違うからと言って腹は立てない。腹がたつのは、単純に面白くないからで(ひどいときには、書いた当人でさえ話がよく分からないことがある)、むしろ、えっ、こんなことになるの? とわたしが想像だにしなかったものを見せてくれたら、わたしは大大満足をするのだ。

対象になっている映画は、オリジナルのストーリーをほぼなぞっているが、むろん、舞台をアメリカから日本に移しているし、それに伴ってところどころが微妙に違う。その微妙な違い方が、乱暴な表現になるが、馬鹿っぽいのだ。もう少し優しくいえば、デリカシーがない、スマートじゃない。

話の内容についてはなにも知らずに接したので、最初字幕で、時代は明治になったばかりの頃であり、官軍に負けた幕府側の武士達は追われ追われて雪深い北海道まで逃れたが……と示された時には、ああ、移し変えに苦労したんだなあと、シナリオライター(監督自身)に同情もしたのだった。
が、冒頭の、深い雪の中を馬が走り、鉄砲が撃たれ、兵士達が血まみれになって倒れ、等々の映像がいかにもチープで、大丈夫かなと思ったりもした。

そのチープな感じ、あるいはルーズといってもいいのかも知れないが、物語が進むに従って、どんどん疑いようのないものになっていく。

5、6人いる娼婦たちのリーダー格を演じる小池栄子は、かなり上等な女優さんと思っていたが、これがまことに残念なことに。彼女も含め、女性達が不幸せそうに見えない。これは致命的なことだと思われる。
不幸そうだ、可哀そうだと観客に思わせないと、彼女達がお金を集めて、殺し屋を雇うことの<正当性>が担保されない。歌舞伎町のキャバクラの馬鹿ホステスがアタマきたから一丁ヤキを入れてくれる? なんて話とは違うのだ。でも、その程度の話になってる。小池栄子、単純に血色がよ過ぎて…

最悪なのは、佐藤浩市演じる役どころ。とにかく、なにかといえば理不尽かつ過剰な暴力を振るう。オリジナルでも、その役にあたる保安官は暴力を振るうのだが(おお、誰が演じたか。名高い名優の名前が…!)、それについては明解な大義名分があって、彼は管轄下にある街の治安を体を張ってでも絶対に守る、だからその使命を果たすためには理不尽な暴力だって振るうのだ。リメイク版には、この大義名分がない。浩市氏は、ただのサディストにしか見えない。
そもそも舞台になってる街がどんな街だかさっぱり分からない。どういう人々が住んでいるのか、どこからがこの街なのかが分からないから、この街に銃や刀を持ち込むべからずと言われたって、なにがなんだか…

この映画は暗い。だからこそ、監督もシナリオライターも、ところどころに笑いをユーモラスな場面・やりとりを散りばめているのだが、リメイク版にはそれが微塵も感じられない。
保安官も、自力で家を作っていて、それがちょっとしたことで壊れてしまって呆然とする、みたいな、彼のチャーミングな側面も描かれていて、だから、イーストウッドに殺されてしまうところでも、彼は自分の仕事に忠実なだけだったのに…と哀れを誘うのである。

この監督はなにを描こうとしたのか。アイヌの人々が出てきて、日本人に理不尽な扱いを受ける。先の娼婦達も、自分たちは牛や馬と同じなのか、と憤るシーンがある。差別? いまもなおある差別の現実を描きたいと、そういうことなのか。

オリジナルにあってリメイクにないもの。詩情ってやつですね。

この監督はTVCMを撮っていたひとなのだろうか。意味のないアップが多用されている。どうだ、分かるか、みたいな。「悪人」もそうだったが、情緒過多。それが結果として、10秒で終わらせるカットが1分に、3分で片付けられるシーンが10分になったりしている。ノロイ、ダサイ。
殺し屋3人組の中の若者の殺しのシーン。相手がひそんでる(そんな感じ皆無だが)家の敷地内に忍び込み、目指す相手がトイレで用をたしてるところを殺すというのは、どちらも同じだが、まあ、リメイク版の手際の悪さときたら! 映画の監督ってどういうことをするひとなの? どういう監督が腕があるっていえるの? なんて思う人は、両作のこのシーンを見比べたらいい。多分、誰が見てもオリジナルの方にはドキドキして、リメイクの方にはなにチンタラしてるの? と思うはずで、それが監督の腕の差。

そもそもの話が分からない。オリジナルの方は、最終的に仕事のために置いてきた子供達が待ってる家に、主人公は帰るのだけれど、リメイクはそうならない。アットホームなハッピーエンド(そうじゃないけど)を嫌った? なぜ? その代わりに用意したのがあのホッタラカシなラストシーン? なに、それ?

実質的なラストシーンである、格闘シーン。馬鹿かと思うほど長い。まだやるの? と、悪いと思いながら何度も舌打ちしてしまった。
そもそもの設定が間違ってる。女郎屋の建物がオリジナルに比べると大きすぎて、だけど、オリジナルのように男達で埋めたいと思うものだから、男達がいっぱいいて、だから、主人公がある程度のカタをつけるためには時間がかかると、こういうことになっているのだ。

大量に流される血に、いったいどういう意味があるのか。なにもない。え、無意味に流される血の無意味さを描きたかった? なにをかいわんやですな。

この映画がいかに杜撰なものか、書き出せばまだまだあってキリがない。
これを言ったらおしまいよ、と思いつつ書くが、時代設定はともかく、舞台を北海道にもってったのが大間違いです。
雪しかないじゃん、雪、ちゃんと撮れないじゃん。

結論。これはまさしく許されざる映画。

イーストウッドの正直な感想を知りたいが、まあ、無理ですね。

訂正、補足、ヴァレンティン - 2013.09.13 Fri

前回の訂正及び補足です。

荒川洋治の近刊は、「文学のことば」。こんなシンプルなタイトルを思い出せないとは!
「詩の被災」について書いていたのは、「詩とことば」。注文に応じてホイホイと、しかし内容はキマジメな詩や原稿を書いてしまう作家たち、自らの言葉こそがこの<想定外の特需>によって被災していることに気づかないのか、という…

佐伯啓思の著書の副題は、資本主義の精神分析ではなく、「資本主義の精神解剖学」です。似てますけど。

時々、わたしの戯曲の上演許可を得るための手紙などに、わたしの名を間違えて書いてくるひとがいる。
統一郎。これがいちばん嫌で。ムカッとなる。わたしの辞書には、<統一>なんて単語はないのです。

昨日は夏休みも終わりということもあり、久しぶりにナマ野球。ヴァレンティンのホームランを見に行ったのですが、不発。そうそうこちらの思う通りにはいかない。

神宮球場は学生のとき何度か六大学を見に行ったが、それ以来だから40数年ぶり? 長生きしてるなあ。ナマ野球自体も、横浜のホテルにカン詰になってたとき、全然書けないので横浜球場に行ったのが最後だから…。まだ故・加藤博一がバリバリの現役だったから、あれから何年経つのだろう。

広島の応援が凄かった。ビックリ。ビジターなのに、ひとんちの庭なのに、大騒ぎ。応援する声のヴォリューム・迫力がヤクルトの3倍くらい。初回からもう、ここが勝負どころみたいな、全知全霊を賭けてるみたいな血管切れそうな応援ぶり。これで9回まで持つのかなと心配してしまったが、相手の攻撃のときは休んで体力温存してる。なるほどネ。でも、どう考えても試合に出てる一塁手なんかより彼らの方がエネルギー使ってる。

ヤクルトの、東京音頭にのせて手にした小さな傘を上下させる応援、笑ったけど、東京音頭って曲終わりがしょぼるので、なんとなくヤッタ感がない。最後盛り上がるように、うまく編曲できないのかな。
そこへいくと、タイガースの「六甲おろし」とかジャイアンツの「闘魂こめて」なんか、いかにも応援歌って感じで。ともに、古関ゆうじ(漢字が分からない)の作曲。軍歌をいっぱい作ったひとですね。

ここにきて、ヴァレンティンの見方が変わってきた。わたしも、多分世間の多くも。

一昨日から読み始めた「神田橋條治 医学部講義」(面白い!)の中に、こんなことが書いてあった。

脳には、外界を認知するときに、すべての情報を全部一緒に入力して、それをプロセッシングしてある認知に達するのではなくて、対象に対してすでに持ってしまっているフィルターを通して情報を拾っていく傾向がある。彼・彼女がそう見えるのは、「そう思って見るからそう見える」のだ。

ま、先入観から自由になりなさいとおっしゃってるわけですが。

いまだに外国人選手=出稼ぎ=不真面目という等式にしがみついてる輩は少なからずいて、そういう目から見ると、守備・走塁にもたつき感があるヴァレンティンはやっぱり不良外人ってことになりかねないが、でも、インタヴューなんかの受け答えを見てると、意外と思えるほどのインテリ。好漢!

脳にかぎらず人間の様々な器官は、ひとが<生きる>ためにはどうしたらいいかってことで、作られ、機能
してるわけで、前述したことも、当然そういう働きがよりよい結果を導くからそうなってるはずなんだけど、切れすぎる刃物は危ない、ということでしょうか。




1・2・讃・詩 - 2013.09.05 Thu

この夏、ざっと100本ばかり映画を見た。秀作3本では納まらないので、追加3本。

「王朝の陰謀」
長い副題がついてるが、覚えられない。中国・香港合作映画。監督はかのツイ・ハーク。
中国4千年の歴史の底力をこれでもかとばかり見せつけられる。
則天武后が皇帝にならんとしている。それを記念して(?)66丈の高さを誇る彼女を模した巨像が作られている。イタリア(だったかな?)から偉いひとたちが来て、中国の役人がその巨像の中を案内している。と、役人の体がいきなり燃え出す。な、なによ、これ?!という驚きのシーンから映画は始まる。
亡国の市と呼ばれる地下帝国があり、当時の最先端の科学技術が紹介され、火炎虫という恐ろしい昆虫が物語のキーになったり、更にもちろん、派手なアクションシーン数知れず。そして最後にあっと驚くどんでん返し。ストーリーの詳細を省くのは面倒くさいからで、ま、フツーに血湧き肉踊る傑作娯楽映画です。

「オレンジと太陽」
監督はジム・ローチ。この名前からも分かるようにケン・ローチの息子で、これがデヴュー作(多分)。
ものすごくマジメな映画。ほんの3,40年前までイギリスから孤児たちをオーストラリアに送っていたという、実際の<事件>をもとにしている。
ひどい話。いたいけな子供達はオーストラリアに送られ、理不尽かつ過酷な労働をしいられ、おまけに、彼らの受け入れ先の教会で神父たちに日ごと夜ごとレイプされていたという…
主人公は、福祉事務所で働く中年の女性。ひょうんなことからこの事実を知り、極秘にされていたこの事実を明らかにするために、そして、オーストラリアに在住する、大人になった今でも子供の頃の傷を癒せない人々のケアのために、献身的に動く、働く。両国政府の厚い壁が立ちはだかり、教会関係者からであろう圧力・暴力を受けるがひるまない。しかし、毎日のように傷ついた彼・彼女達の話を聞いているうちに、そのあまりの内容を受け止められなくなり、彼女は大きな精神的ダメージを受けてしまう…
父・ケンの映画にあるようなユーモアに欠けるが、心地よい緊張感が途切れることがない秀作。俳優も皆さんお上手で。少年時に心に傷を負い、主人公の聞き取り調査にもまともに対応しなかった男が、次第に心を開いていく、その開かれていく過程が見事に演じられている。俳優の名は知りませんが。

「アメリカの友人」監督ヴィム・ヴェンダース
例の如く、これまで2度ほど見てるはずだが、ほとんど記憶がない。アメリカの友人役を演じていたのは、怪優デニス・ホッパーであることは知っていたが、主人公の額縁職人があのブルーノ・ガンツだったとは!
デニスはマフィア世界にも通じているらしい正体の知れぬ男。彼は老画家に有名画家の贋作を描かせていて、それをオークションに出して金儲けしている。そのオークションでブルーノと出会う。共通の知人が、ふたりを引き合わせるが、ブルーノは「噂に聞いてる」とデニスにそっけない態度をとる(ここがミソ)。
ブルーノは血液の病で余命いくばくもないらしい。
ある日、デニスはブルーノの店を訪れ、額縁製作を依頼する。ブルーノは彼に心を開いたのか、子供のおもちゃをデニスにプレゼントする。
デニスはマフィアの男に、殺さなきゃいけない男がいるが、誰か適当な殺し屋を推薦してほしいと言われる。プロの殺し屋だとアシがつきやすいから素人がいいと言われ、ブルーノのことを思い出す。そして…

この頃のヴィムは冴えてました。70~80年代。どれも面白い。ブルーノには妻子がいて、妻はあるとき、夫の行動に不信を抱き、いったいわたしに隠れてなにをしてるのかと詰問する。ここいらのくだりが、あの「夜叉」の一場面とそっくり。話の先行きに終始ワクワクさせられる。
この映画をベースに戯曲を書く予定ですが、これはここだけの話。

この夏に読んだ本ベスト3
荒川洋治「詩とことば」(岩波現代文庫)
このひとの本はいくつも読んでいる。近刊の、書評をまとめたものも平行して読んでいて、これも面白かったが、タイトル失念。おお!
詩の被災について書いていたのはどっちの本だったか。<詩の被災>とは、東北地震の際に書かれた詩(も含む多くの文章)にあらわになってるさもしさ(死体に群がるハイエナのような)を見ると、詩・ことばもまた今度の地震で被災したように思われる、というまことに得心がいく辛らつきわまりない文章。
この人の本に挙げられている作家の名前の半分以上をわたしは知らない。驚くべき読書量! なんだろう、このひとの偏執。

佐伯啓思「貨幣と欲望」(ちくま学芸文庫)
副題がついていて、「資本主義の精神分析」(多分…?)
読んだときにはなるほどなるほどと思っていたが、一ヶ月経った今、ほとんど忘れてる。馬鹿ですね。
でもちゃんと覚えてることはひとつだけあって、ケインズが書いているらしいのだが、資本主義(金儲け=貨幣収集)のその先には、「退屈」しかないということ。このくだりを読んで、もの凄く納得した。いまの世にはびこる作品の大半のテーマは、ジャンルを問わず、結局のところ、コレではないか、と。退屈から生まれたものでしかないのではないか、と。芝居を作る?なぜ?退屈だから。違うのでしょうか?
「あまちゃん」「半沢直樹」が面白い?結局暇つぶし(退屈しのぎ)には最適ってことでしょ?だから、例えば、先に挙げた「太陽とオレンジ」みたいなキツイ映画は、大半のひとにはお呼びじゃない、という …
映画「桐島、部活やめたってよ」は、最近の日本映画の中では例外的な秀作でしたが、これなど典型的な「退屈」を物語の核にした映画だ。みんなの中心にいてみんなのなんとなく心の拠り所だった桐島が突然、部活をやめると、みんなは毎日をどう過ごしていいか分からなくなって、結果、日々の退屈が浮かびあがる、という…

深沢七郎「みちのくの人形たち」(中公文庫)
散歩がてら、久しぶりにブック・オフに行って購入。目当ては藤圭子のCDだったのだけれど。
これまた久しぶりの深沢七郎。先に挙げた荒川洋治の本にこの作家のことが書いてあったのを思い出し、手にとったのだ。相変わらずのとぼけた節回し。作家自身を模した老人のところへ見知らぬ男が訪ねてきて、なんとかって花(その名失念、もう!)の話をする。百人一種でもうたわれている花だが、いまは珍しい種になっているその花がわたしの家に咲くから、その季節になったらわたしの家に、と。主人公は、その男の礼儀正しさに感服し、もちろん、その花を見たいこともあって、しばらくして東北地方のその男の家を訪れると …というお話。つげ義春のマンガみたいだが、それはつげがこの作家の影響下にあるからだ。
その男の家に、近所のひとが屏風を借りに来るあたりから、妖しい空気が漂い始める。誰にも理解可能な易しい単語で書かれているが、読み進むに従って、まるで暗いトンネルの中に置き去りにされたような不安に包まれる。
これを読んだあと、一緒に買った、これは高橋源一郎が近刊で(これもタイトル失念!)大絶賛している綿矢りさの「インストール」「蹴りたい背中」を読んだが、やっぱりおこちゃまランチなのだった。
高橋源一郎、いつも最初は面白そうなのに頁を進めるに従って退屈になる。いつも、「若いひと、凄い」という結論になるのが。

1・2・讃! - 2013.09.03 Tue

ああ、もう9月。夏休みもあと10日ばかりとなりにけり。
久しぶりにこの夏はゆったり出来た。競馬で函館に行った、小倉にも行った。お盆で田舎に帰ったついでに、名古屋で芝居も見た。ままごと。前に見た「わが星」と同じ印象。ほんとにままごとみたいな芝居だった。残り少ない人生、こんなものにつきあってる時間はニャーゾと思った。
大人になりたくないおじさんがずっと小学生をやっていて、なぜ大人になりたくないかというと、大人は責任等々が増えて自由に生きられないから嫌だというのだが。
はあ? 今時のコドモはそんなに自由に生きてるって思ってるのだろうか?コドモとオトナの境界が低くなって、だから今時のコドモのほうがオトナよりも生きていくのは辛いと思ってるのじゃないのだろうか?

ま、コドモみたいなひとをいじめてもしょうがない。この夏に見た映画のベスト3と読んだ本のベスト3を以下に挙げよう。まだ一ヶ月くらいしか経ってないのに記憶が薄れているが。


映画ベスト3(順不同)
「欲望のあいまいな対象」監督ルイス・ブニュエル
80年代半ばに作られた。初見。スケベで暇を持て余している金持ちの爺が若い女性を追いかけ回すお話。
当然のことながらうまくいかない。女は気がありそうなふりをするのだが、難攻不落。ようやくベッドインを果たすも、なんと女のパンツが ……?!
まことにナメた映画だ。そのわたしら爺にとっては許すまじき若い女をふたりの女優が演じる!
要するに二人一役。その女がもつふたつの顔、即ち、理知的な顔と官能的な顔をそれぞれ違った女優が演じるという仕掛け。ふたりはなんの前触れもなく入れ替わる。おかしい。ナメテイル。ゆえに、笑える。
爺には中年の執事が、女には色っぽい母親が常に影のように控えている。まさに<2>の映画。彼らの行く先々で爆弾事故(テロ)が起こるという趣向も、胸騒ぎを覚えさせ、実によい。

「私が、生きる肌」
これは最近の映画で、監督は変態映画を得意とする(?)スペインのアルモドバル(これでいいのかな?)。主役は色気爆発のアントニオ・バンデラス。
バンさんは整形外科医。彼は人間の肌と寸分変わらない人工肌の研究をしていて、映画は、彼が学会で自らの研究を発表しているところから始まる。
しかし、バンさんがただのフツーの整形外科医であろうはずがない。彼は自宅でひそかに若い女性を監禁していて、彼女を実験台として人工肌の研究をしているのだ。
一方。この話とはいったいどんな関係が?と思わせるエピソードが唐突に挿入される。
母親と古着屋を営んでいる若い男。彼は現在の生活が退屈で、一日も早くこの家・この町を出て都会に出たいと思っている。彼はその日、招かれてあるパーティに出かけ、そこで可愛い女の子と知り合う。
このときバックに流れる歌曲がとてもいい。歌っているのはスペインの有名な歌手らしいのだが。
で、どうなるか? そのパーティにはバンさんもいて、なぜいるのかというと娘が心配なのだ。彼の娘は、最近精神科の病院を退院したばかりで…
すでにお分かりのひとはお分かりのように、古着屋の男が見つけた可愛い女の子がバンさんの娘で、あろうことか精神的な不安を抱えた娘は結果だけを見れば、その男にレイプされ、それが原因で彼女は自殺をしてしまうのだ。うーん。
これだけでも相当ヘビーだが、まだまだ。話はここからで、ドウナッテンダー!と、あまりの展開に声がデそうな話がどんどん出てくる。むろん、これ以上は書かない。これはネタがバレルと面白さが半減してしまう映画なので。バンさんの家ではたらく老メイド。これがこの物語のファンタジスタで、いいパス出してます。とめどなく暗い話のバックには明るいスペインの陽の光。このコントラストがいい。

「夜叉」
主演はご存知高倉の健さん。監督は降旗康男。学生時、このコンビで作られた「地獄の掟に明日はない」は傑作。大感動で打ち震え、以後健さんのオッカケとなった、わたしにとってはまさに記念碑ともいえる映画です。
で、「夜叉」。東映を辞して以後の健さん映画はずっと敬遠していた。簡単にいえば、健さんにはずっとヤクザ映画一本で通してほしいという、ま、ファンのわがままなのですが、そういう思いがあったからです。わたしの健さんイメージを壊したくないという…
で、「夜叉」。これは紛れもない傑作。シナリオがいい。
健さん、いまは北陸の港町で漁師をしているが、昔は大阪のミナミを縄張りに、いい顔していたやくざだった。組がヤクに手を出したのを嫌い、ミナミで知り合った女性(堅気)と結婚して、彼女の郷里で一緒に住むように。それがこの港町。彼ら夫婦には三人の子供がいて、奥さんの母親も含め、家族6人、それに気のいい仲間にも恵まれ、つつがない日々を送っている。
ある日、この町に大阪のミナミでホステスをやっていた女がやってきて、「ほたる」という小さな居酒屋をひらく。彼女はきれいで客もちもいいので、店は大繁盛。男達の女房たちはヤキモキ、みたいなお定まりのくだりもあって …
そこへたけしが、あの世界のキタノが登場。彼は「ほたる」の女のヒモ。ヤクザ。最低の男。女にカネをせびり、挙句、店の客の漁師達に覚せい剤を売るようになる、そして…
まるでクリント・イーストウッドの「グラントリノ」みたいに、この映画で健さんは、これまで自分が映画の中で演じた男をそのまま演じて見せるのだ。
でも、しかし。これは健さんの映画じゃない。この映画の主役は「ほたる」こと蛍子を演じる田中裕子だ。
凄いのひとこと。彼女のひとこと、ひとつの動き、それぞれがマジかと思われる繊細な神経に貫かれている。どう見たって童顔で可愛いのに、それとは真逆の、男を地獄の底まで連れて行ってしまいそうな、それでも構わないと男も思ってしまいそうな、色気。色気というのは、そういうものですね。つまり、この世の安寧、つつがない日々の暮らしとは対極にあるもの。健さんがこんな女に魅かれてしまうのは当たり前です。だって、男の中の男ですもの。フニャチン野郎にゃこんな魔性の女のお相手は務まりません。
健さんの奥さんはいしだあゆみ。彼女もいい。不幸そうな顔がいい。名前は冬子。うーん、寒い。
健さんが「ほたる」ののれんをくぐると客は誰もいない。タケシが刃物を振り回して大暴れし、止めに入った健さんの背中を斬ると、そこには夜叉の刺青が…
ふたりの過去があぶり出しにされ、店には客がよりつかず、健さんにも町のひとたちは冷たい視線を浴びせる。そんな寂しいふたりが酒を飲んでると、そこへ奥さんがやってきて…
夏(蛍)と冬の間に挟まれて、どうしたものかと黙って酒を飲む健さんはもの思う秋? 名シーンです。
ほとんど演歌の世界、亡くなった藤圭子の世界です。

ついでに藤圭子のベスト3(讃)も挙げておきましょう。
・「面影平野」
 宇多田ヒカルが母ちゃんカッコイイとツイッターだかに書いたことで有名に。藤圭子はわたしとほとんど同世代だが、さほどの興味はなく、だからこの曲は知らなかった。宇崎竜童・阿木耀子のコンビ作。ということは?山口百恵と藤圭子は重なっている?そのことを考えると感慨深い。「六畳一間の、面影平野~」という最後のサビのところがかっこいい。
・「みだれ髪」
美空ひばりの歌を他の歌手が歌っていいと思ったことはないが、これは例外。ユーチューブで見たのだが。
見た人は多分わたしと同様の感想を持ったに違いない。どこかの局の歌謡番組なんだろうが、ふらっと出てきた様は、ほとんど素人みたいで、衣装は見たところ普段着、視線に落ち着きがなく、ま、挙動不審の態。
しかし、歌いだすとコレが!いや、その前に、前奏が始まると変な動きを。昨日覚えたばかりなんです、みたいな振り。大丈夫かあ?と思ったところで歌いだす。と、コレが!
一番を聴いた時点では、やっぱりひばりには…と思っていたが、二番に入るや、不安がふっ切れたのか、声のボリュームがグンと上がって、ひばりの歌声の繊細さを含みつつなおその先を、まさに岬に立って海に向かって声を限りに自らの報われなかった恋の思い出を泣き叫ぶ、という感じ。凄いです。
・「網走番外地」
ご存知健さんの十八番。これまた、こんな歌、健さんのほかに誰が歌えるものかと思っていたが。
誰なんだ、藤圭子。どんな生活してたんだ?見事に女囚の歌になってる。暗い。まさにこの世を、安寧の日々を過ごすわたしらに、「なめんなよ」とツバを吐きつけるような暗く重く厳しい歌声。

また長くなっちまった。疲れた。続きはまた明日。

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