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2012-11

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見つかったぞ 何が? 永遠が … - 2012.11.29 Thu

先週の土曜から三日続けて同じ映画を見る。
ガス・ヴァン・サントの「永遠の僕たち」だ。なんとも冴えないタイトルだが、原題は「Restless」。辞書を引いたら、「眠れない、休めない、落ち着かない、不安、不穏、絶え間ない運動において」等々の意味であるとあった。

ストーリーは端折る。
誠に美しく切ない映画で、宮澤賢治の詩にこの映画の印象にぴったりの一節があったような気がするのだが、思い出せない。

ストーリーを端折るのは、書くのが面倒だし、ネットで検索すればすぐに出てくるし(興味ある方はそちらでご確認を)、ストーリーだけ取り出せばよくある難病もの、ひと昔前に流行った「セカチュー」なんかとどこが違うの? ってことになりかねないからだ。

それらのカスとどこが違う?
 幽霊が出てくる。
ウン? それ面白い?
だってアメリカの田舎に住んでる高校生(実は中退)の男の子のところに、日本の特攻隊員だった男の幽霊がなぜか出てくるんだから。
なぜ特攻隊? 
知らん。多分、その男の子がなにかで特攻隊の存在を知って共感を覚えたからだろうと思うけど。
なぜ共感を?
車で彼と同乗していた両親が交通事故にあって、彼だけ残して亡くなってしまった、と。それ以後、他人の葬式に参列するのを趣味にしているような生活を送っていることでも明らかなように、彼は生死を分かつロープの上に立つ綱渡りの芸人みたいな世界認識を持っているからだと思われます。だから、その幽霊は彼のもっとも親しい唯一の友達になってて、そんな日々の中、彼にとっては見知らぬ他人のお葬式で、ま、運命の彼女に出会う、と。

ま、ここまで書けばそんじょそこらに転がってるメロドラマとは明らかに違うことが分かるだろうとは思いますが。

物語の、画面の隅々にまで細かな神経が通ってる作品。使われている小道具の選び方、それらが登場するタイミング、それにまつわるエピソードの紡ぎ方、BGMの選曲、そのヴォリュームの的確さ等々、あまりの繊細さにため息が出てしまう。
キャスティングもいい。主人公の男の子を演じたのがあのデニス・ホッパーの息子と知って驚く。デニスは、演じた役の印象もあるのだろうが、とんでもない八方破れのならず者というイメージだったが、息子の方はもう、いわゆる草食系男子以外の何者でもなく。ヒロインを演じたのは、どこかで見たことが…と思ったら、「アリス・イン・ワンダーランド」でアリスを演じてた女優さん。ここでの役もアリス風味の女の子だ。

この映画で改めて確認したこと。それは、品がよくて知的レベルが高い若い子たちのラブストーリで、それに幽霊のような現実にはこの世に存在しないもの(たち)が絡んで、若い彼らを励まし恋を成就させようとする、目下のわたしは(昔から?)そんな映画・お話が好きなのだということだ。
今年見て感銘を受けた映画はみんなそういうもので、「わたしを離さないで」しかり「ロングエンゲージメント」しかり、若い子の映画じゃないけど「エリックを探して」「エレクトリックミスト」等々にも怪しい(!?)人々が登場する。

なぜこの種のものに魅かれてしまうのか? 分かっているけどここには書かない。





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ぼんやり頭ですが - 2012.11.22 Thu

先週末は久しぶりに競馬でしこたま負けてしまう。そのショックのためであろうか、昨日ダウン。朝から食欲がなく、節々が痛い。
同年齢の他のひとがどうなのか知らないが、朝起きて食欲がないというのは、この20年ほどわたしの記憶にはなく、ましてや歩くどころか立っているのもおぼつかないなどという状態は、腰が痛くて…、というのを除けば記憶にない。熱もあったから多分、過労に風邪がつけこんだのだと思うけれど、いや、昨日は原因不明の重病でこのまま死ぬかと思った。最近またよく亡くなりますからね、いろんなひとが。

BSで、荒井由美の「ひこうき雲」について語る、という番組を見た(タイトル失念)。
ユーミンにさしたる興味もなかったけれど、ユーミンとそのアルバムのバックバンドをつとめたキャラメルママのメンバー、それにディレクター、ミキサー(?)が久しぶりに一同に会して、あの時はああだったこうだったと語り合ってたわけだが、なにかそこに流れている空気がとても好ましいものに思われ、最後まで見てしまったのだ。
音楽はというのか、ミュージシャン達の話は楽しい。それはおそらく楽器という媒介物が常にあるからだろう。だからゆるやかに話が流れる。
詳しいことはなにも分からないけど、16チャンネルのテープに入った曲の中から、パーカッションだけ聴かせてとか、ピアノだけを、ベースだけ、いや、ベースだけ聴いたってなんだか分からないよ、等々。で、みんな、ここいいねえなんて褒めあってる。繰り返しになるけど、わたしは音楽なんてよく知らないから、ほんとにいいんだかそうでないんだか分からないが、でも、みんなで褒めあってる、その感じに嫌味はなく、とてもいいのだ。
俳優や本カキ、演出家が一同に会して、昔の自分たちの芝居のビデオなんか見て、「いいね、この場面」なんて言い合うだろうか。言い合ってたするのは、ただの恥知らずどもではないだろうか?

加藤幹郎「ブレードランナー論序説」と佐伯啓思「経済学の犯罪」ようやく読了。前者の精緻を極めた論旨に感動し、後者には、ああ、そういうことかとものすごく納得。
先日、松本(修)くんと、表現への渇きを感じさせるような学生がいないのは何故かというような話をしていたのだが、これを読んでその事情がどこから来てるのかが、よおく分かってしまったのだった。

骨太のテーマって ……? - 2012.11.15 Thu

1年生の戯曲創作法の授業のテキストに使うべく、久しぶりに岩松さんの「月光のつつしみ」を読む。
「台詞の考察」というタイトルで、まあ、ただ思いついたことを台詞にすればいいって、そういうことではなくて、どういうことを考えなきゃいけないか、例えば岩松さんはなにを思ってここにこういう台詞を書き付けたのか、みたいな内容の授業。
戯曲の数ページ分をコピーして学生に配布。だからその部分の確認だけでもよかったのだが、せっかくだから(?)と全部読んだのだ。
前に一度読み、上演された芝居も見ている。それらの記憶と今回改めて読んで受けた印象とは、小さいとは言えないズレがあった。

ズレ?

登場人物たちの過剰とも思える繊細さ、というより、彼らを描く作家=岩松さんの神経があまりに繊細過敏でそのことに驚き、戦慄する。
正直なところ、上演された作品に今回ほどの衝撃を受けた記憶がない。
むろん、わたしの肉体的・精神的なコンディションの問題や劇へのアプローチが年々変わっていることもあろうが、それはとりあえず脇においても、衝撃を受けた事実は否めない。

ここに書かれた異様といって構わない繊細さ過敏さは、俳優の身体を必要としていないと言うのか、俳優の身体を邪魔なものとしていると言うのか、こんな繊細過敏な精神を持った俳優(人間?)なんてこの世に存在し得ないと言ったらいいのか。いずれにせよ、面白いとは思いつつ、上演された作品にさほど魅かれなかったのはそういう事情だったように、いまにして思う。

肉体はそこになく、声だけが、いや、文字だけが、遠い星(月?)からかすかにかすかに届けられる、そんな哀しい戯曲。

話変わって。先日、明らかに出来ない理由があるので、なんとなくメンドー臭い話になってしまうのですが。
わたしが結構高く評価した、X氏が書いたある戯曲があり、それをABCのお三方は、言葉は違うけれど似たような、わたしからすると驚くべき感想を表明した、と。

それがこれです。「骨太のテーマがほしい!」

評価の違い以前に、率直に言って、わたしは今時こんな言葉で批評をなすひとがいること自体が信じられないのだが。Aさんは日本の近代文学の研究者、Bさんはカフカだの村上春樹などを素材にして現在を語らんとしている(らしい)思想家(?!)、Cさんはれっきとした(?)演劇批評家です。

分からない。骨太のテーマってなんだ? カフカも村上春樹も現代演劇も、いや、A氏が専門としているらしい漱石ですら、そういうものがもう設定しえない、喪失してしまった、という前提から作品を書き始めてるのじゃないのか?

早い話、X氏の作品の真意を測りかね、かといってその理解が届かない自らを認めるわけにもいかず、三氏は言わば苦し紛れに水戸黄門の印籠みたいに居丈高にその言葉を持ち出したと、こういうことだと思うわけですが。

先に記した「月光のつつしみ」の繊細過敏さと、骨太のテーマという言葉との間にある、気が遠くなりそうな隔たり ……

無神経な輩がのさばる社会を認めてはいけない。

この愚直な女たちを称えよ - 2012.11.08 Thu

公演を終えたからといってすぐに<普通>には戻れない。芝居を作り上げる際に使ったエネルギーの燃えカスがしばらくくすぶっていて、それが高揚感と呼んでいいような高ぶりを容易にはおさめさせないのだ。
が、3日4日と経って、燃えカスから熱もなくなる。と、それで平常に戻るかとそうはいかなくて、高ぶり分を取り返すようにどんどん冷え込んでいく。早い話、なにもする気がなくなっていわゆる欝状態に陥ってしまうのだ。一週間ほど前まで実はそうだった。

当然のことながら芝居を作るためには異常・過剰、尋常ならざるエネルギーを必要とする。年齢のせいもあろうが、日常生活を営むための最低限のエネルギーを取り戻すのに時間がかかるようになっている。

健さんが映画を一本撮り終えるとしばらく世間から身を隠すというのには、同様の理由があるのではないか。

この国にはいい歳をして毎年毎年10本近くの芝居を作っている演出家が何人かいるが、よほどの手抜きをしているとしか思えない。そういう御仁が新国立劇場の芸術監督を持ち回りでやったりしている。茶番だな、この国がやってることはなにからなにまで。

先週末、東京の自宅に引きこもり、競馬とテレビでの映画鑑賞にすべての時間を費やす。ほとんどメシも食わずに!

「ロング・エンゲージメント」に深く心打たれる。

「蒸気愛論」のBGMにもそのサントラを使った「アメリ」の監督、J・P・ジュネと主演女優、オドレイ・トトウコンビによって作られた映画だ。
世の動きに疎いわたしはこの映画の存在を知らず、新作かと思いきや、封切りは2005年だと知って更に驚く。この映画の存在を7年も知らずにいたとは一生の不覚。

いまはネットなどという便利なものがあるのでストーリーは詳述しない。
なににそんなに心打たれたのかと言うと、ヒロインの無謀かつ旺盛な行動力。それはいまのわたしにもっとも必要とされるもの。彼女のそれこそ尋常ならざるエネルギーの蕩尽ぶりに触れて、わたしは「よし、生きる!」と少々だが前向きの気分になれたのだった。彼女は小児マヒで片足が不自由、という設定も効いている。

彼女の生き方の無謀さは、ひたすら前に前にと進む愚直さによって支えられている。
改めて考えてみると、わたしはそういう女性が好きなのだ。

例えば、「シラノ・ド・ベルジュラック」のヒロイン、ロクサーヌしかり。この女の愚直さは愚かしさが勝った愚直さだ。だって、好きな男(イケメン)の声と、その男になりすまして詩的な言葉を重ねて愛を語るシラノ(ブサイク)の声と区別がつかないんだから。バカでしょう。こんなバカだから、好きな男がいる戦場に馬で駆けつける。まさに愚かしいほどに真っ直ぐ。たまらない。

山下耕作監督、中村錦之助主演の「関の弥太っぺ」で十朱幸代演じるヒロイン・おさよもわたしの好きな女性だ。
この女も愚直というより大変なおばかさんだが。先に記したロクサーヌは声の聞き分けが出来ないおばかさんだったが、こっちは顔の見分けがつかないおばかさん。
彼女は幼い時の自分のいわば命の恩人である弥太郎のことが忘れられない。もう十年以上も会ってはいない彼のことを毎晩夢に見るほどで、降るようにある縁談話にもだから耳を貸さない。で、なんだかんだあって。
ある日、弥太郎が彼女の前に現れる。でも、それが夢にまで見た弥太郎本人であることに気づかない。
なぜか? 自分で映画を見て確かめて下さい。
弥太郎をまっすぐ見る十朱幸代の眼差しが美しい。美しいけど結局なにも見えてない目。だから余計に美しい。うん?

どーでもいいけど、オドレイ・トトウはとてもいい。お利口そうなのに愚直。そこがいい。日本の女優さんでいえば、石原さとみはそういう感じなんだけど。本人の意向なのか事務所の意向なのか、必要以上に子供っぽく振舞っている。
ま、日本人は子供好きだからな。大抵の男はロリコンで、大抵の女は少年好みなわけでしょ。
しかし!
昨日もテレビのCMで彼女を見て、「そうじゃないだろ!」とダメだしをしてしまった。



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